桑名藩主松平定敬の動向と
鯨波の戦いでの桑名藩士立見鑑三郎の活躍
〈西軍海道軍、高田城下を出陣〉
北陸道鎮撫総督府が江戸・品川沖から軍艦で出航し、高田に上陸したのが閏四月十九日であった。閏四月に高田より南方の新井宿に信州方面から合流すべき出陣していた東山道第二鎮撫隊が合流し軍議を開き、海道軍と山道軍に分けて越後出陣を定め侵軍を開始したのが、二十一日であった。しかし、海道軍が柏崎の手前、鯨波に浸出するのは二十七日であった。それ程の距離がある訳ではない。(約50㎞)一週間近い日数が必要だったのは道路が険しく難渋したか、それとも第二弾、第三弾の兵士の到着を待っていたのかも知れない。当時、旧幕府よりはるかに軍艦、輸送船が不足していた西軍であった。越後方面の西軍が六千~八千名といわれる軍勢である。二十一日にその軍勢が揃っていたとは思えないのである。
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一方、柏崎に滞陣していた桑名藩主松平定敬らの動向を遡ってまとめておくことにする。閏四月二十七日に行われた鯨波の戦いまでに柏崎方面への会津藩、衝鋒隊などの動勢、三国峠の戦い、雪峠、小出島の戦いに桑名藩が関わっているので、それまでの動向をまとめておくことにするものである。
松平定敬
桑名無血開城

〈松平定敬、謹慎の江戸・霊厳寺〉
二月十日(3月3日)登城禁止が命じられ、十二日には徳川慶喜は上野寛永寺も謹慎生活に入り、会津藩主松平容保は十六日に帰国、松平定敬は国元はすでに恭順しており、朝賊の汚名にどうしても納得できず、帰藩する意思はなかった。幕閣の者も一人、二人と国元に帰藩する者、恭順した本藩には帰藩せず、江戸から脱出する者もある中、松平定敬も二十四日、藩祖が眠る深川・霊厳寺に謹慎の形をとったが、旧幕府より江戸退去を暗に言われ、三月八日(3月31日)品川沖からスネル武器商人の蒸気船で出航した。偶然にも会津藩若年寄梶原平馬らも武器を積載し乗船していた。
〈桑名藩主松平家の墓〉



〈霊厳寺〉
松平定敬公本陣跡の石碑
〈東軍の守備陣営定め、出陣する〉

〈桑名藩主松平定敬・本陣跡〉


〈勝願寺と柏崎陣屋跡〉


〈柏崎陣屋跡〉〈陣屋の長屋跡〉
柏崎陣屋跡 2003年10月14日撮影
現在の柏崎陣屋長屋跡 ↓
往時の面影を残す柏崎陣屋長屋跡 ↓
柏崎陣屋跡説明文
〈柏崎陣屋〉
寛保元年(1741年)白河へ領地を移された松平定賢は、これまで扇町陣屋を廃止し、翌年領内221ケ村の総支配所として東西100間(180メートル)南北50間(90メートル)総坪数5千坪の柏崎陣屋を大久保のこの高台に構築した。陣内には越後領を支配する御役所、天領を預かる預役所、各郡代官の詰める刈羽会所などの諸役所、郡代を筆頭にした役人および家族の住む長屋などがあった。明治に入ると、柏崎県庁がここに置かれたが、柏崎県は明治6年(1873年)6月、新潟県に統合された。
〈柏崎の街並み〉
鯨波の戦いに勝利した東軍であったが、同日会津藩が守る小出島陣屋が攻略され挟撃の可能性から惜しいかな撤退となり、翌二十八日西軍はこの柏崎に本営を移した。が、本隊は五月二日ともいわれている。
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この道が鯨波へつづく路 2003年10月14日
戊辰戦争戦病死者の墓
〈鯨波の戦い、西軍を撃退する〉
閏四月二十七日(6月17日)暁七ッ半(午前5時)頃、米山峠より西軍は砲撃をしてきた。東軍は出来るだけ敵を近付けて一斉射撃の作戦であった。周囲に砲弾が炸裂する中、狙いを定めて「射てっ」の合図を待っていたという。鯨波の要塞の地を守備するのは智将で勇将の桑名藩立見鑑三郎であった。先陣の米山峠方面での激しい砲銃戦が次第に近付いてきた。黒い豆のような西軍が海岸線に現れる。それでもジッと潜んでいた。やがて一斉射撃の合図、大軍に小軍であっても、その銃撃は凄まじく次々と西軍の兵士が倒れていったという。
〈鯨波海岸を望む〉
右下の岩が鬼穴と呼ばれている奇岩であるという。
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前方の高台の裾を西軍は侵攻してきたという。
2003年10月14日撮影
〈鯨波激戦地跡〉
会津藩浮撃隊が陣を構えた高台(写真)と伝わるが、当然桑名藩諸隊も混っていた。真下に迫る西軍・加賀藩兵を激しく猛烈に銃撃する。また、左右の高地からも桑名藩の猛射が撃たれる。加賀藩は主力部隊の援護も出来ずに敗走したという。
〈御野立〉
説明文
御野立公園
明治戊辰戦争(1868年)の古戦場で明治11年(1878年)明治天皇が北陸巡行のおり野立ちされ、風光を賞讃されたことから「御野立」と名前がつけられた。海に突き出た巨岩上に造られた展望台や小道から松の枝越しに見る岩礁と番神岬、椎谷岬の遠望はとてもすばらしい。

〈桑名藩戦死駒木根の墓〉
陣地跡のような感じを残すものが所々に見られる。
2003年10月14日撮影
〈鯨波の戦い〉
西軍が越後高田に集結中との報を受け、桑名隊は閏四月十六日に凡そ60名を鯨波方面へと派遣する。同日、定敬公は安全の為に服部半蔵らお供方、その他追従の藩士60名と共に後方の桑名藩領地、加茂へ移動した。加茂に到着した定敬公は、大昌寺を仮本営とする。
鯨波は柏崎の南2㎞に位置し、柏崎に入る為には必ず通らねばならない道だったが、鉢崎から鯨波の海岸部は米山(標高993メートル)がせり出し、断崖も有って北陸街道の難所であった。
17日には衝鋒隊半大隊約200人、浮撃隊一小隊約100人が柏崎に到着。会津藩からも山田陽次郎、長岡敬次郎が連絡の為に来たので軍議を開き、守備を
本道 鯨波方面 桑名藩
支道 北条方面 衝鋒隊
遊軍 柏崎 浮撃隊
・・・と決定し、桑名隊は凡そ30人を青海川方面へ進ませた。桑名隊は24日頃本隊も鯨波方面へ進出し、
雷神隊 鯨波の婦人坂
到人隊 広野領
神風隊 大河内
・・・にそれぞれ堡塁を築き布陣した。
対する西軍は、19日薩摩の黒田了介と長州の山県狂介が兵を率いて越後高田に上陸した。加賀藩兵、富山藩兵、高田藩兵も加え、凡そ2.500名の兵力を有し、27日には鯨波に進攻を始めた。
御野立の真下が今はトンネルになっていた。
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閏四月二十七日、高田城を発した西軍は日本海沿いを北上、桑名藩領柏崎に迫った。桑名藩はこの鯨波に防御線を張った。この鯨波は柏崎への通過点で海岸に断崖が落ち込む要地だった。午前四時、暴風雨の中、戦闘は長州・薩摩藩兵の突撃が始まった。これに高田・加賀・畠山藩兵が続いたが、桑名藩士立見鑑三郎の活躍により西軍を撤退させている。
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丘陵には塹壕後に見える段々がのぞめる。
西軍は高田藩境近くの鉢崎と青海川にあり、鯨波の桑名隊と対峙していた。また、二小隊が上輪に駐屯して、高田藩兵と共に海道を守備していたが、そこに26日夕刻に薩摩・長州・加賀藩兵が到着した。
26日夜、桑名藩雷神隊隊長立見鑑三郎、到人隊副隊長馬場三九郎、神風隊隊長町田老之丞は地元の案内人をたて、大雨の中近くの山に登り敵情を偵察するが大雨の為に見通しが利かずに詳しく偵察することは出来なかった。
27日払暁に大雨を衝いて西軍は進軍を開始、鯨波の西端で桑名隊監視兵と遭遇し戦端が開かれた。立見らは敵が前進していない事を怪しみ、明け方まで見守っていたが鯨波方面から銃声と火が上がるのを見て敵の攻撃を知る。
町に火を付けて退却する桑名隊を追って進む西軍に、鯨波東端を守備していた到人隊隊長松浦秀八率いる致人隊半隊と雷神隊の一部は防壁で防戦するが撤退を余儀なくされた。この時、松浦は被弾して深手を負い転倒する。
桑名隊が鬼穴付近に撤退した時に立見らが戻り、左右の高地に桑名隊を配置し、浮撃隊を近くの山に上げて西軍に対して反撃を開始。桑名隊の猛射に西軍は攻略できないまま、遂に退却命令を出し、鯨波に警戒の兵を駐屯させて諸隊は青海川以西まで退いた。
また、鯨波方面では加賀藩兵が進軍中に桑名隊に発見され開戦。防戦一方となった加賀藩兵は、側面から主力部隊の援護をすることも出来ずに敗走した。この時、本道方面の加賀藩兵は友軍を誤射してしまう。
こうして、鯨波の戦いは桑名隊の勝利に終わる。
27日夜、柏崎へ引き揚げた彼らに長岡方面にいる会津藩から、小千谷失陥と柏崎方面が突出し過ぎているので、少し後退しては如何かという注進が入った。そこで、桑名隊は28日朝に柏崎を発して妙法寺(柏崎北東11㎞、刈羽平野東端)に退却した。西軍はこの報せを聞き、同日柏崎を無欠占拠する。
〈桑名藩士・立見鑑三郎〉
桑名藩士町田静致の次男として江戸藩邸にて生まれる。鳥羽・伏見の役の頃、藩主松平定敬の小姓として随行する。鳥羽・伏見の役で敗北した桑名軍は江戸まで退却する、江戸では恭順派が多数を占めていたため、鑑三郎は江戸を見限り徹地抗戦を唱えながら、土方歳三らとともに転戦する。宇都宮城攻略戦では大鳥圭介の伝習隊と共同し最前衛として城内に突入するなどの武功も挙げた。
その頃、徳川慶喜とともに謹慎中であったはずの藩主松平定敬が越後の柏崎で健在なのを知り、一路柏崎へ急行する。鑑三郎が到着した頃にはもう北陸戦争が避けられない気運であったため、残存桑名兵300人余りを集結させ鑑三郎は事実上の主将となる。
しかし、300名足らずの兵力では所詮対局を動かすことは不可能と悟っていた鑑三郎は、少数ゆえの機動力を活かし、神出鬼没な遊撃戦に活路を見出し西軍を翻弄する。鯨波では1000人近い西軍を破り、北陸戦争(長岡戦争)の要所であった朝日山攻防戦でも、薩摩兵と奇兵隊を主力とする西軍の精鋭相手にとうとう朝日山を守り抜いた。
この後、北陸戦線が崩壊し佐川官兵衛とともにしんがりを務め会津まで撤退するのだが、後年、鑑識三郎は「戦闘(自軍)は常に勝っていたが、いつも味方の不利な報せが入り、やむなく後退せざるをえないことがたびたびあった」と語っていたという。結局、鑑三郎は出羽庄内まで戦うが降伏し、謹慎の身となった。しかし、ほどなく許され、新政府では陸軍大将まで昇進し、日露戦争の黒溝台の奮戦は語り草となる。いわゆる賊軍出身の人物では異例の出世をとげる。
鯨波戦争跡
〈鯨波の戦いからその後〉
米山峠方面の東軍の斥候陣と西軍の先鋒隊が遭遇して戦端が展らかれた。続いて鯨波の各方面に戦いが展開され、薩摩・長州・富山・高田・加賀藩の約三千人といわれる軍勢が押し寄せてきた。桑名藩の雷神・神風・致人隊の三隊、会津藩浮撃隊、衝鋒隊前軍の五百人は奮戦する。西軍は最新洋式の砲十四門で砲撃したという。鯨波の陣地下に迫る西軍には斬り込みをかける衝峰隊、そして再び陣地に戻り、再来を待つ戦法をとったという。
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いくら大軍といっても攻める街並みは狭く、左右の高地には銃撃する東軍の陣地であり、その前進は難しい情況であった。その上、地形・地理に詳しい桑名藩の縦横無尽な攻撃に悩まされ、一日かけての西軍の攻撃にも一歩も引かぬ王軍の攻撃についに西軍は撤退となった。東軍の勝利であった。
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西軍の退却を確認した東軍は柏崎陣屋に退き宿陣する。翌二十八日夜明け前に再び鯨波へ進軍、防備陣営を整えた所に小千谷方面からの伝令が来て、小出島、小千谷が西軍に攻略された事を伝えてきたのである。東軍は京劇の可能性大なるを持って、止むを得ず妙法寺まで衝鋒隊は撤退、桑名藩は椎谷へ、応援にかけつけようと出陣した水戸・諸生党は荒浜にそれぞれ守備滞陣となった。会津藩は衝鋒隊と共に行動したようだ。

新潟に黒船がやってきた 1995年4月27日朝日新聞切り抜き
〈御殿山と星野藤兵衛〉
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