〈旧堀田邸〉
旧掘田邸・さくら庭園は、最後の佐倉藩主であった堀田正倫が、旧領地に住居を移すために建設した建物と庭園。主屋は木造平屋建て一部二階建て、屋根は寄棟瓦葺きの建物5棟で構成され、明治23年(1890)に竣工した。その後明治44年(1911)には湯殿が増築された。主屋や門番所、土蔵はほぼ当時のままの状態で残されている。庭園は、芝を中心に赤松やサルスベリなどの樹木と景石や石塔を配置し、高崎川と対岸の台地を借景にした眺望が広がっている。
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(上)門番所
(下)主屋の玄関

〈佐倉藩の動向〉
藩主堀田正睦が「安政の大獄」で老中首座を罷免され、国元に帰り隠居となった時、堀田正倫(まさとも)が藩主となった。安政六年であった(正睦はその後病死)。十一万石、譜代大名。
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元活元年(1864年)「天狗党」が分離し「上州勢」が鹿島に至り、「大船津」で戦いとなった時、潮来に出陣「郷枝」を焼いた。
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慶応二年(1866年)「軍制改革」を行ない、歩兵二大隊、砲隊、騎兵隊を編成した。「大政奉還」後、藩論は「抗戦派」が占める。慶応四年(1866年)三月、藩主正倫は、恭順謹慎する徳川慶喜の救解のため、「上洛」するが、途中で足止めされ、藩主は京都での「謹慎」を命じられた。「人質」の形となった藩主をかえりみて藩論は「恭順派」が優勢となり、四月、旧幕軍から協力を求められても拒否した。閏四月五日、西軍は「房総鎮撫総督府」の本営を佐倉に設け、佐倉藩はこれに協力し、藩主の「佐倉護送」を命じられ、五月には「撤兵隊」の鎮撫に出兵し、さらに八月には磐城平藩の領地警備のため出陣する。

〈佐倉城・夫婦モッコク〉〈本丸跡〉
「モッコク」の左手奥にに「天守閣跡」がある。

佐倉藩末裔の叫び

堀田正睦を再考(新聞切り抜き)

佐倉城(新聞切り抜き)

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