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長岡藩家老河井継之助、小千谷会談決裂から開戦決意、会津藩との同盟成立

岩村精一郎会津戊辰戦争(参-壱)

片見の戦い・会津藩諸隊長岡へ・慈眼寺

長岡藩家老河井継之助

小千谷会談決裂から開戦決意

会津藩との同盟成立

〈戊辰戦争に越後の”蒼き龍„河井継之助登場する〉

四月一日(4月23日)家老となっていた河井継之助は藩士の総登城お命じ長岡城本丸大広間で藩主牧野忠訓、前藩主忠恭、出座のもと全藩士に

”今、薩長の奸臣が天子を推戴し幕府を陥れ政権を奪い取った。御譜代の諸侯も幕府に背いて薩長に同調しているのは嘆かわしい次第である。わが長岡藩は小藩であるが、大義を守るためには、たとえ孤立しても徳川家より受けた三百年の御恩に報いたい。それが義藩というものだ〟

と熱く雄弁を振った。

-◇-

しかし、恭順を唱える藩士もあった。藩主は佐幕派であり、河井を厚く信頼し、反対派から命っを狙われる河井をかばい、前藩主自ら説得するなど、藩論は次第に河井説に傾きかける。しかし、河井が言う武装中立は中々理解されなかった。

-◇-

閏四月二十六日(6月16日)雪峠の戦いが起こり、その砲銃声が長岡城下にも響き、戦雲が迫っている事を知った。この日、河井は軍事総督に就任し本営を摂田屋の光福寺に設けた。若き諸隊長を集め、”西軍の攻撃があった場合のみ戦う„と専守防衛を命令したという。

-◇-

会津藩佐川官兵衛の同盟への加盟も断わり、会津藩士の領内退去も求めた。河井はあくまで武装中立を唱え、西軍からの軍資金調達にも一切応じていなかった。

-◇-

閏四月二十七日、小千谷陣屋に西軍山道軍が着陣し、本営として滞陣する。五月一日(6月20日)河井は花輪彦左衛門を使者として小千谷に派遣し会談の申し入れをする。翌二日、河井は二見虎三郎藩士一人を従えて小千谷へ向かった。

河井継之助

〈会談決裂する〉

五月一日、西軍・軍監岩村精一郎は、長岡藩士花輪と面談し会談の場所を慈眼寺と指定したという。

-◇-

五月二日(6月21日)河井継之助は二見虎三郎を随行させ慈眼寺へ向かった。胸には藩主忠訓の嘆願書が入っていた。

慈眼寺 2003年8月24日撮影

慈眼寺

〈慈眼寺・本堂〉

河井継之助は長岡藩は西軍側にも、会津・同盟軍側にも加わらず武装中立を目指し、自藩の戦いを避け、会津藩を説得するという申し入れが拒絶されるが、席を立つ岩村の袖を取り、今一度話をと願うが、岩村は袖を振り払い、戦場でまみえようと蹴るように退室した。

慈眼寺本堂

慈眼寺

〈慈眼寺パンフレット〉

慈眼寺パンフレット

慈眼寺パンフレット

〈会談の間〉

五月二日、西軍の岩村精一郎は左右に薩摩藩渕辺直右衛門、長州藩杉山壮一と白井小助を控えて待っていた。河井継之助は二見虎三郎を次の間に控えさせ、単身会見に望んだ。

-◇-

河井はまず

(1)藩主の嘆願書を差し出し、その口上を述べ、抗戦の意志もない長岡藩への出兵(浸出)を問い、嘆願書の熟読を述べたという。

岩村は嘆願書を手にすることなく”今日に於いて出兵の如何を問うは無用、速やかに恭順を示し藩兵を差し出せ〟と回答する。河井は西軍の討幕の理由を問い、抗戦する意志なし、速やかに長岡藩領の通過を申し出た。しかし、岩村は昂然と席を立ち、「今さら嘆願書は無用、恭順なくば一戦あるのみ」と答え退室してしまった。

慈眼寺会談決裂

慈眼寺会談の間

〈会見の間〉

会見の間入口の上にある、河井岩村両君会見の間

河井岩村両君会見の間

河井岩村両君会見の間

河井岩村両君会見の間

〈岩村河井会見記念碑〉

2003年8月24日の越後ツアーで知り合えた長岡出身の森本秀明氏から2000年当時の慈眼寺、摂田屋の光福寺の本陣跡の碑などの写真を送って戴いた。感謝!!写真の他に、河井継之助関係年表、森本関係家系図、、河井継之助と明治維新 太田修著(新潟日報事業者発行)2003年10月12日初版の本まで贈呈して戴いた。

慈眼寺

岩村河井会見記念碑

〈慈眼寺境内に建つ御堂〉

仁王門=山門を潜り抜けると正面に建っている船岡観音堂である。

-◇-

後年、岩村精一郎は史談会の席上で”長岡での戦は避けられたのではないか„との問いに”もし、河井の人物を知ること、今日の如くならば、また談判の仕様もあったであろうが、右の次第で頭掛けにこれを付けて取り合わず、遂に破裂に及んだ„としみじみ述懐したという。

-◇-

昭和十二年(1937年)、慈眼寺に二人の談判記念碑建立の除幕式に岩村の甥と河井の甥が顔を揃えたが、岩村側の反省の色が見えないので、ついに両者の和解は成らなかったという。

船岡観音堂

船岡観音堂

長岡戦争

長岡戦争

長岡戦争

 

資料=会津戦争

長岡藩

長岡藩

長岡藩

長岡藩

〈河井継之助〉

河井継之助

河井継之助関係年表

河井継之助関係年表

〈河井継之助邸跡〉

説明文 〈河井継之助屋敷跡〉

長岡藩士(禄高百二十石)継之助の名は秋義、号を蒼龍窟と称した。長岡藩の家老上席・軍事総督をつとめ、北越戊辰戦争で新政府軍と激闘し、会津塩沢で陣没した。継之助は文政十年(1827年)一月一日長岡城下同心町に生まれ十八歳の時、この地に移り住んだ。昔、庭内に二本の大きな蕎松(きょうしょう)があったと伝えられる。

資料=ツアー資料

河井継之助屋敷跡

〈二見虎三郎の墓〉

慈眼寺の談判に随行した長岡藩士二見虎三郎の墓である。

説明文

長岡藩軍目付、のちに銃卒隊長となった。河井継之助が長岡藩の運命を決めた小千谷談判に随行した唯一の長岡藩士。天保六年(1835年)に生まれ、通称を虎三郎、名を正直という。世禄は六十五石。第二次長州征討に従軍。三十三歳のとき、戊辰の戦いが起こり、虎三郎は抜擢されて要職につき、各地を転戦した。慶応四年八月二十五日、会津若松城下七日町口の戦いで負傷し同年九月十四日山形で没した。

二見虎三郎の墓

〈西軍山道軍・軍監岩村精一郎(土佐藩士)〉

土佐国幡多郡宿毛の生まれ。家老安東の家臣の出。長男通俊(明治政府・農商務大臣)次男林有造(同・逓信大臣)と共に宿毛の三兄弟といわれた。慶応三年(1867年)に上洛し、陸援隊に入り行動をし(文久年間からの志士活動はない)鳥羽伏見の戦い後、東山道鎮撫総督府の監察兼応接掛に抜擢され、戊辰戦争に於いては北陸道総督府の軍監と出世。悪くいえば成り上がり者とも評されている。

-◇-

会見の時、錦旗の官軍という権威を背負った岩村は、当時日和見の多かった諸藩の家老とタカをくっていたが、河井の理路整然とした、一点の曇りもない弁舌に反論できず、結局は”今さら言い訳とは見苦しい。もはや聞く耳もたぬわ、時稼ぎの嘆願書なぞ取りつぐつもりもない。朝令を奉じられぬなら、兵馬の間に相まみゆるだけと心得られよ〟と立ち上がって席を離れる。踵を返す岩村に河井は袴の裾に取りすがって”何卒、何卒、お取り次ぎを〟と嘆願するのを振り払って奥へ行ってしまったという。

-◇-

北越戦争は激烈を極め、西軍の会津侵攻を随分と遅らせる結果となったが、長州藩士品川弥次郎(参謀)は、後年「山県か黒田が河井と会っていれば戦争は起こらずに済んだ」—と断言している。

岩村精一郎

資料=会津戦争

河井継之助と長岡戦争

河井継之助と長岡戦争

〈河井継之助・開戦決意の地〉

河井継之助は川島億二郎の決意を聞き、また今まで会う事も話す事も余りなかった川島が抗戦と河井への協力を述べた事に多いに力を得た。この日の軍議、評議に於いて川島を軍事掛兼奉行に指名し、常に行動するようになったという。

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右下の後方に信濃川と対岸の堤防が望める。

前島神社

〈開戦決意の地碑〉

碑文〈河井継之助開戦決意の地〉

慶応四年五月三日、長岡藩軍事総督河井継之助は前島村を守衛していた親友川島億二郎を訪ねた。前日、小千谷の慈眼寺で新政府軍軍監岩村精一郎らと会談したが、その非道な取り扱いを相談するためでもあった。川島は開戦することに反対したが、熟議の末、長岡藩は抗戦することになった。二人はこの地から同行して摂田屋の本陣に向かい諸隊長を前に開戦の決意を述べるに至った。

前島神社

〈河井継之助、開戦を決意する〉

岩村らがいきなり、刀をとって立ち上がった時、別室に控えていた二見虎三郎は刀を引き寄せた時、退室したことにホッとしたという。

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談判が決裂した後、河井継之助は西軍の尾張、松代、加賀藩等々の陣営を訪ね、願書の周旋を頼むが、何処も薩長の手前尻込みして受け取る事はなかった。それでも河井は帰藩せず小千谷の旅籠(野沢七郎右衛門方という)に投宿した。西軍の密偵はその事を本陣に通報したという。

-◇-

五月三日(6月22日)、朝、河井は再び西軍の本陣(小千谷陣屋)前に立つ。しかし、何を思ったか面談もせず踵を返してしまった。片貝方面から帰途しようとするが、この日、西軍と会津藩の片貝の戦いが展開されていたため、迂回路を取り、摂田屋村に出た。光福寺の長岡藩本陣へ向かう前に前島に立ち寄り、ここに守備陣営する。川島億二郎を招いた。

-◇-

河井は川島にこう語ったという。

”われ、粉々擾々の間に独立して、忠義を全うし、民を始め、天日光明の時を待たん期し、何んぞ図らん。官軍の無情なる、遂にわが藩をして不忠不孝の地に陥れんとは実に遺憾なり。顧(おも)うにわが命を捨てて、天下に謝せば、こいねがわくば藩の名誉を保つことになるのであろう。貴方に後輩を託す。

開戦決意の碑=前島神社 2003年8月24日撮影

開戦決意の碑=前島神社

〈前島神社〉

河井継之助の一命を賭けて今日の情勢を生んだ責任を果たすとの言葉に川島億次郎は驚き、それを諫めて

”今や全藩士の士気、まさに高まり、それを抑えるのは無理な事、総督が死んでも武装中立の嘆願を聞かぬ西軍であるならば、必ず戦うであろう。自分は浅識(せんしき)無智なれそ、そのために努力する〟

と心境を語ったという。

-◇-

以前、河井の武装中立の政策に意見を異にしていた川島億二郎であったため、河井はまず、その川島に談判の結果を話し、決意を確認したものと思われる。

前島神社

〈三島億二郎の墓=栄涼寺〉

資料=会津戦争

三島億二郎の墓栄涼寺

資料=ホームページ長岡戦争

資料=ホームページ長岡戦争

〈三島億二郎の墓〉

説明文

文政八年(1825年)長岡藩士伊丹市左衛門の次男として生まれた。同藩士の川島家を継ぎ、のちに性を三島と改めた。北越戊辰戦争後、再興された長岡藩の大参事となり、窮乏に頻した士族の救済にあたった。長岡復興のために殖産興業を行い、教育・文化の育成にも尽力した。また北越殖民社を創設し、北海道開拓に熱情を燃やした。その人格は穏健で思慮深かった。明治二十五年(1892年)六十八歳で没した。

三島億二郎の墓

三島億二郎は河井継之助より二つ歳上である。二十歳の時、川島徳兵衛に人物を買われ、養子となる。藩校を尚(たっと)んだ桶宗(おけしゅう)という一党に河井、小林虎三郎らと共に加わった。嘉永六年(1853年)六月ペリーが浦賀に入港した時江戸詰であった億二郎は舟を雇って間近まで行き、つぶさに観察している。また幕府役人が久里浜で国書を受け取る時、佐賀藩の便宜で槍持ちとして、アメリカ人に近接して、その隊伍の整然さ、規律の厳しさを知る。

長岡藩主牧野忠雅が幕府次席老中となり海防掛をおうせつかった時、藩政の富強策について広く藩士に意見を求めた時、河井、小林らと共にその意見書を提出するが、藩内の門閥の抵抗に合い職を罷免させられ帰国している。河井も同様であった。この時、河井と三島は、他日の雄飛を期して、奥羽各地の遊壁の許可を得、出立している。河井は中国・九州へも遊歴している。この間、井伊大老の暗殺、桜田門外の変が起きている。

小千谷会談決裂の時、河井はわざわざ三島に会い開戦やむなきを伝えた。三島は平生の所信と違うではないかと問うと、河井は自らの首と三万両を差し出せば、戦いは起こらないと答えたという。三島は河井一人を死なせて恬然(てんぜん=知らぬふり)とはできないと生死を共にすること誓った。

〈長岡戦争への道〉

資料=ツアー資料

長岡戦争への道

新政府軍兵制

新政府軍兵制

〈河井継之助、西軍との抗戦を告げる〉

長岡藩は西軍が小出島、雪峠の会津藩、衝鋒隊らの東軍を破り小千谷へ侵攻するに及び、閏四月二十六日(6月16日)摂田屋村の光福寺に本営を設けた。

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五月三日(6月22日)長岡藩軍事総督河井継之助(上席家老)は、前日の談判が決裂し前島神社に於いて守備陣営していた三島億二郎と面談し、西軍との開戦を決意、その足で大隊長山本帯刀(家老=二十四歳)が布陣する本営に赴き、諸隊長を集め、小千谷会談の顛末を語り

”王師(天皇)は戦を好み、人民を苦しめるものであらず、しかし西軍は兵威誇り、義理人情を無視し、不徳に陥れようとし、すでに長岡藩領に侵入している。西軍は天朝の名を借りて私欲を逞しくする奸賊なり。国家のため、この奸賊を討伐せざるを得ない。しかし、西軍に遭遇しても長岡藩から先に攻撃はするな〟

と開戦を宣言した。藩士らはみな、士気が高まり、抗戦への態勢をとったという。

長岡藩本営跡=光福寺

長岡藩本営跡=光福寺

〈長岡藩本陣跡=光福寺〉

碑文

幕末の風雲は長岡藩に嵐となって襲ってきた。慶応四年(1868年)五月三日夕刻、長岡藩の諸隊長は、本陣の光福寺に集合した。軍事総督河井継之助は新政府軍に対し、開戦の決意を演説した。小千谷会談の決裂ののち、我が藩の面目を保ち、藩公に殉じようと熱誠」を弁じ、新政府軍の無法に抵抗した継之助の無念が偲ばれる。

 

昭和六十二年(1987年)建立

長岡藩本陣跡=光福寺

〈会津・長岡藩同盟を締結する〉

河井継之助が開戦の決意を述べた時刻より早い時刻に片見の戦いが会津と西軍の間に行われ、会津藩は一時勝利するが、迂回路をとった西軍の背後の攻撃に脇野に退却後、長岡城下に着陣、翌日の五月四日(6月23日)、会津藩士佐川官兵衛は摂田屋村の長岡藩本営を訪ねた。あたかも長岡藩は軍議の最中であった。

光福寺

光福寺

軍議中に会津藩佐川官兵衛は河井継之助に面談を申し入れ、同席する事となった。開口一番、河井は会津藩士退去の命を出しているのに再び訪れるとは何事ぞ—と迫ったという。しかし、話し合いが進む中、西軍に対する思いは同じ事と知り奥羽列藩同盟の成立する情勢を聞いた長岡藩諸隊長らも和み、談和となりついに会津藩と長岡藩の同盟が成立した。奇しくも奥羽列藩同盟が白石城に於いて正式に成立し諸藩(二十五藩)の重臣が建白書に調印した翌日の事であった。

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五月五日、片見の戦いから退却し、長岡城下に宿陣した朱雀隊、砲兵隊が城下を出陣し、摂田屋に至ると長岡藩軍事奉行萩原要人、諸隊長が出迎えた。領内退去がなくなり、同盟成立を知った両藩士らは互いに手をとり合い西軍との戦に士気も盛んとなり、健闘を誓い合ったとという。この夜、長岡前藩主牧野忠恭より酒肴が下賜されたという。会津藩は九日まで滞陣となり毎夜巡回視に務めた。

-◇-

一方、会津藩、桑名藩、衝鋒隊らも武器・弾薬等々の補給や長岡めざして出陣する諸隊が相次いでいた。衝鋒隊の副総督今井信郎は雪峠の戦いで大雨で使用不能となった武器、弾薬等補給に水原陣屋へ出張していたが、五月五日加茂から三条まで進んできた。後日、妙法寺に入り、本隊と合流し東軍と共に出陣することになる。

会津藩諸隊・同盟軍(水戸諸生党など)長岡へ集結①

 

 

 

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