〈六角獄舎跡=平野国臣らが入獄〉

〈六角獄舎跡〉
1969年(昭和44年)に訪ねた。壬生屯所からそう遠くない三条通りの近くに在った。今は「感化保護院」となっているとの事で、内部の案内はできないとの事であったが、後日「幕末」時の貴重な資料を送って戴いた。
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八月十八日(9月30日)京都守護職より「市中見廻り」の内命が伝えられた新選組は、八月二十一日(10月3日)天誅組と相通じていた勤皇志士「平野国臣」捕捉に向かった。豪商・鴻池の分家の山中成太郎は筑前藩主黒田家の御用達を勤めていたが、平野国臣らと志を通じていた。それを探知した新選組は二十二日(10月4日)早朝、屋根瓦をめくり門戸を打ち破って山本宅の捜索をするも、平野は見つからず、引き揚げた。二十四日(10月6日)再び向かうが逃げられ、かくまった罪として古東領左衛門を捕えた。この後平野国臣は「生野挙兵」にも失敗し、逃げる途中に捕えられ、この「六角獄舎」へ入れられた。この後「蛤御門の戦い」時、獄中で殺されてしまったのである。
〈獄舎跡〉(上) 〈処刑された者の首洗い井戸跡〉(下) 1969年3月23日撮影
〈六角獄舎跡(感化保護院)の方から送って戴いた資料〉
六角獄舎んお田中さんの話
ドンドン焼き
元治元年(1864年)七月一九日(8月20日)の「蛤御門の変=禁門の変」時、長州藩に久坂玄瑞らが立てこもった鷹司邸から出火した火が後に「ドンドン焼き」と呼ばれる程の大火となり、八十一町、民家二万八千戸が延焼している。
この火事が「六角獄舎」に迫ってきた。獄舎には多くの尊攘浪士が収容されていた。通常、火事の時は三日以内に定められた場所へ戻ってくれば罪一等が減じられるという条件のもとに、一時放免されるのだが、入牢者は名うての浪士であり、戦火であり当時、播の西町奉行滝川播磨守は悩みに悩んだ末、処刑を決断したという。前年十月「生野挙兵」に参加した平野国臣、横田友次郎、本多小太郎らが、まず処断された。八ツ時(午後2時頃)から始まった処刑が七ツ半(午後5時)に及ぼうとしていた。火が更に迫ってきた。奉行は一人一人の処刑は時間がかかると、獄中の者を一ヵ所に集め牢格子の外から槍で突きたてる処刑をとった。あまりにもむごい処刑であったという。獄中浪士たちの怒号、叫びが獄内に谺したという。
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