〈会津藩主松平容保「京都守護職」となる〉
「井伊大老」が「桜田門外の変」で斃れると、世情は不安定な様相となり、万延元年と改元されるが、「筆頭老中」安藤信正(磐城・平藩主)の「坂下門の変」〈「坂下門外の変」起こる〉
が起きまたしても江戸城内での事件であった。 安藤老中は罷免された。
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そんな中、薩摩藩主(前)島津久光は一千名の兵を率いて上洛し、朝廷に「意見書」を提出、政局の安定を図ろうと奔走した。 さらに江戸城に登城し幕府に「将軍後見職」「政事総裁職」「京都守護職」等々の「建策」を進言、自らの就任も辞さないものであったという。
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幕府は「外様」に京都を牛耳られてはと、親藩の越前か会津藩しかその大任を果せそうな藩は見当たらなかった。 しかし、「後見職」には一橋家の徳川慶喜(この当時はまだ一橋)、政事総裁職に越前藩主松平春嶽が就任となり、残る守護職だけとなり、最近頭角を表してきている会津藩主松平容保にその「白矢」をたてたのである。
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文久二年(1862年)七月の事であった。 しかし、松平容保は病床にあり、固く辞退を申し出る。 しかし、幕府も簡単には引かず、松平春嶽は「小生泣い申し上げ」と説得する。 一方、会津藩国元から家老西郷頼母、田中土佐も駆け付け、辞退を進言する。 しかし、松平容保は「公武合体」の推進には是非とも就任と要請され、また「皇女和宮」が将軍の妻(嫁)に決定されていた。 〈皇女「和宮」の降嫁〉
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さらに朝廷より「攘夷決行」を督促する「勅使」(天皇の使者)が江戸に下る事も決まった。 公家の急進派三条実美、姉小路公知であった。
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一方、朝廷の幕府への権限も急速に強まり、「関白・大臣・伝奏」の任命は、まず天皇の宣下があり、その後に幕府に伝達されるように改められ、天皇の決定権が強くなった。 さらに朝廷の「学習院」は急進派公家と急進派志士の「アジト」となり、天皇の意を無視して「勅命」が下されることもしばしばで、志士(殆んど脱藩士)の出入りが増え「天誅」のテロが頻繁に行われる動きが起きていた。 文久年間だけでも九十七件の天誅テロが起きている。
幕末明治暗殺地図
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