〈松平容保九代会津藩主となる〉(愛宕神社・容保胸像)

愛宕神社松平容保胸像会津戊辰戦争(壱-一)

相模湾沿岸警備

〈松平容保九代会津藩主となる〉

 

「会津松平家譜」に『弘化三年(1846)6月11日、容敬の養子となって、江戸の上藩邸(和田倉門内)に入った。12歳であった。後に正室になる容敬の娘・敏姫は4歳、飯野藩主保科正丕(まさもと)の三女・照姫15歳(容敬の養女)であった』とある。容保は嘉永三年(1850)2月、16歳で元服し、翌年6月初めて会津の地を踏んだ。しかし、翌年正月早々、容敬が病臥の報せを受け、急ぎ江戸に戻ったが、2月10日、容敬は不帰の人となった。これによって容保は同閏2月25日、九代藩主に就いた。安政三年(1856)9月に敏姫と結婚するが、5年後の文久元年(1861)10月、敏姫は江戸の上屋敷で病死する。19歳であった。容保は天保6年(1835)12月29日、高須藩主・松平義建(よしたつ)の7男として江戸四谷の藩邸で生まれた。母は古森義孝の娘・千代。

 

松平容保

容保を6男としているのは、容保の兄(6男)が命名する前に死亡しているので、これを数えないからである。容保には10人の兄弟と9人の姉妹があったが、4男8女は夭死していう。父の義建は文武に秀でた才能(幹)があり、多芸多能なんで、和歌、絵画、茶道、謡曲から陶芸などまで堪能であった。

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容保は前藩主の「海防」について継いでいくこととなる。

房総(富津)、品川沿岸警備

会津若松市史7 会津の幕末維新から

松平家家系図

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