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〈松平容保「幕閣」で頭角を現す〉〈江戸「本行寺」〉

会津戊辰戦争(壱-一)

〈井伊直弼、「大老」となる〉

 

〈松平容保「幕閣」で頭角を現す〉

 

松平容保は、長きに亙る「海防警備」に於いて諸外国の軍艦、兵器の進歩等々からもはや「鎖国政策」では諸外国に太刀打ち出来ない事を確信し「開国」には賛成の立場であった。但し、幕府の威権は維持する考えであった。「戊午の密勅」で紛糾する幕閣の中にあって、徳川御三家の水戸藩の問罪を推し進める事は、国乱の元になると、その中止を建言し、一躍「溜間詰」の諸大名の注目の的となった。

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しかし、井伊大老が桜田門外の変で殺害され、混とんとする政情の前触れを感じていた。万延元年(1860年)十二月に「左近衛権中将」に昇進する。一方、幕府は安藤信忠(磐城平藩主・三万石)を筆頭老中に据え、久世広周(ひろちか)を老中首座に迎え、態勢の立て直しをはかった。井伊直弼による「安政の大獄」で処罰された諸藩主も復活させた。

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「本行寺山門」

この寺には旗本永井能登守尚徳の養子となり、幕閣となり「戊辰戦争」時は幕府若年寄として活躍した「永井尚志(なおゆき)」の墓が建っている。

〈幕臣・永井尚志〉

2003年4月4日撮影

松平容保

〈本行寺〉

安藤信忠は幕政安定のため、(1)幕府軍制の近代化(2)遣米使節の派遣(3)財政強化のための国産増殖と市場統制—など幅広い施策を行った。また、阿部正弘が人材登用した大久保一翁(いちおう)、勝海舟永井尚志らも重用し、さらに「講武所」「海軍伝習所」等々も強化していった。

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「永井尚志」は嘉永六年(1853年)に「海防掛目付」に抜擢され、安政二年(1855)にはわが国初の海軍士官養成機関の「長崎海軍伝習所」を統監した。その後「外国奉行」となり「軍艦奉行」となったが「安政の大獄」で処罰となり罷免された。しかし、安藤信正老中となると、会津藩主松平容保は「政事与かり」となり、将軍家茂から”用向きを相談したいので折々登城せよ〟とまで言われていた文久二年五月三日頃、永井尚志は「軍艦操練所御用掛」として復職した。さらに「将軍上洛」時には「京都町奉行」となっている。会津藩主松平容保とのつながりもできてくるのである。

本行寺

〈道灌丘碑〉〈本行寺〉

〈道灌丘碑〉(木柱の説明文)

太田道灌が長禄元年(1457年)に江戸城を築いた際、眺めのよい、この地に「物見塚」と呼ばれる斥候台(見張り台)を造ったという。寛永三年(1750)に本行寺の住職・日忠や道灌の後裔と称する掛川藩主太田氏などが道灌の業績を記したこの碑を塚の脇に建てた。塚は鉄道敷設でなくなり、この碑だけが残った。このあたりの道灌の言い伝えは古くからよく知られていて、小林一茶も当地で「陽炎や道灌どのの物見塚」と詠んでいる。

2004年4月9日撮影

 

本行寺

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