〈松平容保・会津藩・「京洛」に入る〉

三条大橋京都守護職時代

〈会津藩主松平容保「京都守護職」となる〉

〈松平容保・会津藩・「京洛」に入る〉

そんな状況の中、松平容保はついに守護職就任を決意する。藩の重臣もその決意に「君臣もろとも、京師の地を死場所」と決意したが、西郷頼母は何も語らず、職を辞し帰国し、隠遁生活に入ったという。

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文久二年(1862年)閏八月一日容保は京都守護職を拝命、官位は「正四位下」となり、役料五万石と上洛費用三万両が幕府より貸与された。容保は職務がスムーズに運べるよう、着任するに当たり「先鋒隊」の「公用方」として家老田中土佐、外交方公用人野村左兵衛、山室金吾、外島桟兵衛、柴太一郎、大庭恭平、柿沢勇記、宗像直太朗らを京都入りを命じ、宿舎の設営、食料調達等々を行わせ公用人は京都、大阪の政局と情報収集に当たらせた。柴太一郎は同志の金子与三郎の人脈から急進派公家三条実美との接触を探り、ついに野村左兵衛とともに三条実美に拝謁する事ができた。その時、以前「勅使」として江戸に下った「大原重徳」が幕府に冷遇されたと聞かされた。柴太一郎らは直ちに江戸の松平容保に急使を出し、委細を報告し「三条実美」勅使一行が江戸城に入ったなら、丁重に迎え、また待遇改善等々を容保自ら幕府に申し出、実現する確約を取るよう伝えた。容保はその報せを受けると直ちに登城し「勅使」はもとより朝廷の待遇改善を確約させている。その事が、後々上洛してから朝廷の態度が変わっているのを知る事になる。

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十二月九日江戸を出立した容保は精兵一千名を率い、二十四日午前九時「三条大橋」を渡り、「京都」に足を踏み入れた。橋の東詰には京都町奉行(幕臣)永井正尚、滝川播磨守らが総出で出迎えた。

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〈三条大橋〉写真右側が「東詰」1969年3月21日撮影

三条大橋

松平容保「入洛」の図「会津日新館」(復元)に掲載。

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会津藩の軍制改革前の入洛である。歩兵の服装は絵のようなものではなかったと思われる。

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「荒神橋」

容保らはこの荒神橋を渡り会津藩本陣「金戒光明寺」(黒谷)へと歩を進めていった。

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「大阪城代」「京都所司代」「京都・大阪・伏見・奈良の各奉行所」を統括、まず「公武合体」の実を上げその「畿内」の治安に務め、非常時には「軍事指揮権」を有する権限を持つ京都守護職」の入洛に市民らは約4キロ(一里)に及ぶその行列に期待と不安を織り交ぜ道々に溢れていたという。

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容保は三条大橋を渡り「寺町通り」を北上し「寺町今出川下る」「本禅寺」に於いて礼装に着替え王摂家の「近衛関白亭」に赴き、孝明天皇の「天桟」(天皇の桟嫌=健康)を伺い、黒谷の「金戒・光明寺」に向かい「鴨川」に架かる荒神橋を渡り、下って「東大路通」付近の「聖護院」前を通り「会津本陣」となった「金戒光明寺」に入った。

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沿道にあった京の市民らは「会津」を「かいず」と呼び、遠き「奥州の武士」を初めて見ていた。しかし、この「第一歩」がやがて「戊辰戦争」へとなる序曲となる事は誰も考えていなかったのである。

(上)2004年8月29日撮影 松平容保入洛の図

(下)1969年3月27日撮影 荒神橋

松平容保入洛の図

「荒神橋」から「鴨川」を渡り「東大路通」を横切って黒谷方面へ向かう。

途中に「旧仮皇居」の「聖護院」がある。そこから(下)黒谷方面を望む。

〈黒谷・金戒光明寺=会津藩本陣跡〉

1967年5月18日撮影

荒神橋より

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