〈松平容保「幕閣」に重きをなす〉

京都守護職時代

〈「幕政改革」なる〉

〈松平容保「幕閣」に重きをなす〉

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会津藩は約五十年に及ぶ「海防」にたずさわり、幕府より援助もあったが、そのため、財政は逼迫し、すでに大変な困窮の中にあった。

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会津藩は親藩であり「江戸城内」に於いては「溜り間」詰であったが、「海防」に追われ、またその財政難のため、藩財政建直しに必死であった。

幕政への参画

彦根藩主井伊直弼(なおすけ)が「大老」に就任すると「勅許」を得ないまま米国、仏、英、ロシアの諸国と独断で「修好通商条約」を締結し、また将軍継嗣も紀州藩主の徳川慶福とするなど、諸藩の憤激を生む状況を造成していった。

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そんな中、「反幕」の動きが強まり、井伊大老は公家、大名、志士などを容赦なく逮捕、処罰、いわゆる「安政の大獄」を断行した。そのため、井伊大老暗殺の動きも出始め、また朝廷も「勅許」を得ない諸外国との「条約締結」に激怒した孝明天皇の意を表した「密勅」を水戸藩に下した。

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ついに水戸藩士、薩摩脱藩士による「井伊大老」襲撃、「桜田門外の変」が起きた。(この辺りの一連の動向は「幕末天狗党」に詳述。参照)これら一連の水戸藩の動きに、幕閣は「水戸藩問罪」追求とするが、会津藩主松平容保は「武力」に訴える事に反対し、家臣(藩士)外島義直、秋月悌二朗を使者として出立させた。秋月らはまず舘林藩に赴き、そして笠間藩に行き、水戸藩の事情を聞き水戸に向かい家老武田静雲斎と面談、率直な意見を聞き、容保に報告する。容保はそれを受け再び幕府を説得し、さらに水戸藩には「恭順」の証しとして孝明天皇の「密勅」を返納するよう、幾度となく秋月らを水戸に派遣した。

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それら一連の松平容保の活躍に、万延元年(1860年)十二月十二日「左近衛権中将」の官位が授与されたのである。

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しかし、井伊大老亡き後、京洛は諸藩の入洛が頻繁となり、政事の舞台が江戸から京都に移りつつあった。さらに次々に幕府の要人の暗殺、テロが横行し、京洛の治安は不安定なものとなっていき、「京都所司代」の能力も著しく低下した。

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文久二年(1862年)七月、幕府は一橋慶喜、松平春嶽らの意見を採用して「京都守護職」の設置を決めたのである。

〈会津藩主松平容保「京都守護職」となる〉

幕政への参画

安政の地震

幕政への参画

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幕政への参画

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磯田道史の備える歴史学

磯田道史

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