松平容保、会津へ

松平容保会津戊辰戦争(弐-一)

〈神保修理「切腹」となる〉

松平容保、会津へ

 

〈容保、藩士のフランス式訓練を召見する〉

松平容保はすでに帰国を決意し、二月十五日(3月8日)午後五時、①鳥羽伏見の戦いに参加した藩士、②フランス式軍事訓練の藩士、③「戦い」には参加せず(江戸詰)軍事訓練する全藩士を江戸城内馬場に集め

イ)慶喜の江戸帰還に従わざるを得なかった情況

ロ)家督を若き喜徳に譲ること

ハ)逆賊の汚名を回復すべきこと

全藩士一致してこれらのことを頼むと、告げた。 容保には神保を失うようなことは繰り返すことなく、勉励して会津藩のために尽くしてくれと頭を垂れた。 藩士一同感涙しふるまわれた酒を飲みその誓いをたてた。

〈江戸城内馬場跡〉

松平容保

〈松平容保、会津へ〉

容保は慶喜が寛永寺に恭順の意を示すため自ら謹慎するのをもう流れはどうすることもできないものと、自分も帰藩を決めた。実兄の越前藩主松平春嶽が京にいるため、福井藩士の朝廷への謝罪状を依頼し、二月十六日(3月9日)江戸を後にした。山川大蔵、砲兵隊頭は千住の橋まで一隊を率い見送りにきたという。互いに万感の思いでしばし別れを惜しんだことであろう。

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容保は、帰国に際して「砲兵隊」に二月いっぱい江戸に於いてフランス式軍事訓練を命じた。隊長は山川大蔵であったという。(三月一日=3月24日まで訓練に励んだという)

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一方、国元では(若松城)では、家老西郷頼母の江戸出立を決め、二月十三日(3月6日)に若松を出立していた。萱野権兵衛家老が国元の政務を藩主となった若き松平喜徳を助けながら引き続き行っている。

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二月十六日(3月9日)早駕籠で若松を出立した西郷頼母は「鍋掛宿」(奥州街道)に達していた。丁度、二月七日(2月29日)に旧幕兵二千余名が江戸脱出した兵の鎮撫にきていた幕臣佐久左衛門と会い、面談している。結果は西郷は単身、いったん若松に戻りその事情説明を行い、数日後再び鍋掛へ戻り、江戸へ出立した。

※松平春嶽は容保の実兄である。

松平春嶽

〈幕末に於ける銃・砲〉

江戸城に詰めていた諸藩の藩主・士らも既に江戸から帰藩する者多く、長岡藩士河井継之助などは屋敷にある家具すべてを江戸市民に売り、最新式の銃・砲器を購入し、特に当時三門しかなかったガトリング砲(機関銃)二門も購入したという。

長岡藩家老河井継之助、小千谷会談決裂から開戦決意、会津藩との同盟成立

会津藩も長岡・河井の紹介で武器商人スネルを紹介してもらい武器を購入。その後若松に居住させ武器購入に一役買ってもらっている。

資料=幕末大全

幕末大全

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大砲

幕末大全

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〈千住橋〉

千住橋

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