〈松平容保「東帰」を謝罪し家督を譲る〉

〈会津藩上屋敷跡〉
一月二十一日(2月14日)容保は家老を召し出し、慶喜の命令とはいえ藩士を置いての「東帰」を謝罪し家督を国元にいる松平喜徳に譲ることを伝え、さらに西軍より逆賊の汚名を着せられた徳川家の名誉回復を図るよう伝えた。
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和田倉門内に在った「会津藩邸上屋敷」跡
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会津藩邸跡は現在は広い公園になっている。
〈松平容保「江戸帰着」の藩士を慰労する〉
一月八日(2月1日)大阪城より陸路を辿った帰藩者が「由良港」などからアメリカ軍艦に乗船し、何度か途中寄港し漸く二十一日(2月14日)品川沖に着き、夜に藩邸に入った会津藩家老
萱野権兵衛・内藤介右衛門らの一行であった。それを知った容保は手厚く労った。その後も帰着する藩士には同様の労いをしたという。
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〈説明文〉〈和田倉橋〉
この橋を和田倉橋といい、堀の向こう側にはかつては江戸城内郭門の一つ和田倉門があった。慶長七年(1602年)頃といわれる「別本慶長江戸図」には橋が描かれ「蔵の御門と云、士像道行の橋」と記述されている。また「御府内備考」の史料の「和田倉御門」の項には、橋の由来が「慶長十二年の頃の図には、ここに和田蔵という大きな御蔵二棟を図せり。是御門の名の起こる処なり。(後略)」と記され、蔵があったため門が名づけられたとしている。なお、徳川家康が江戸に入った時、この辺は和田倉という村落があったという説もあります。この橋は昔のままに復興されたもので、江戸城の門と橋を偲ぶにふさわしい景観を見せている。
一月二十一日(2月14日)会津藩は「新選組」に立て替えた「二千両」の支払いを旧幕府に願い出ているが、会津藩と新選組は文久三年(1863年)三月十五日(2月2日)会津藩負傷者と共に大阪・天保山沖を富士山丸で出航し、十二日に品川に入港し「釜屋」に宿泊、その後二十三日に江戸に入り「屯所」に滞留するが、その間の十八日にも会津藩から「二千両」が受け渡されている。慶喜の戦線離脱による突然の「東帰」である。新選組には何も手にせず帰東することになってしまったのである。
〈江戸城・桔梗門〉
一月二十日(2月13日)に慶喜が老中・若年寄らを従えて、会津藩負傷者を見舞ったことから旧幕府は勇敢に戦った会津藩士及び新選組の負傷者に「見舞品」を出した。新選組の負傷者は旧幕府「医学所」に於いて治療に当たっていた。旧幕府典医の「松本良順」の治療を受けていたのである。
1970年10月20日撮影(上)
1971年5月12日撮影(中)
2004年4月8日撮影(下)
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