桑名藩藩主松平定敬・海老名郡司・請西藩主林忠崇動向

松平定敬宿陣後=興徳寺会津戊辰戦争(弐-三)

棚倉藩主と長岡藩主の宿陣跡

桑名藩藩主松平定敬・海老名郡司・請西藩主林忠崇動向

〈霊巌寺〉松平定敬の江戸謹慎先

2009年2月5日撮影

松平定敬の江戸謹慎先=霊巌寺

松平定敬の江戸謹慎先=霊巌寺

〈松平定敬の墓〉〈東京・染井霊園〉

2005年5月20日撮影

松平定敬の墓

〈桑名藩主松平定敬宿陣跡=興徳寺〉

桑名藩主松平定敬は元治元年(1864年)四月十一日に、長岡藩主牧野忠恭の辞退に伴って「京都所司代」を拝命し、実兄松平容保の「京都守護職」と共に「公武合体」「京都の治安」のため務めてきた。しかし、「大政奉還」「王政復古」により幕府がなくなり、その任を解かれ「鳥羽伏見の戦い」に敗れ、強引な徳川慶喜の「江戸への帰府」の随行命に容保らと共に大阪城を脱け、江戸に帰府するが「江戸城登城禁止」と容保らと共に徳川慶喜から冷たく見放され「慶喜の上野寛永寺謹慎」兄の容保の「会津帰国」と続く中、同じ主戦論者であった「庄内藩主酒井忠篤(ただずみ)」も帰国し、一人取り残された感じの定敬は(本藩はすでに「恭順」し新たに藩主を擁立していく)歴代藩主の菩提寺「深川の霊巌寺」に入り謹慎する。若干二十二歳であった。

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三月に入ると旧幕府の総実権を振ることになった勝海舟、会計総裁となった大久保一翁から『恭順されるなら江戸を離れたほうがよかろう』と言われ、三月八日(3月31日)桑名藩の飛び領地「越後・柏崎」へ向けて出立する。陸路はすでに西軍の制圧下にあり、品川沖へ向かった。そこには長岡藩がチャーターしたエドワード・スネルの船が停泊しており、河井継之助家老以下約百五十人会津藩家老梶原平馬ら(約百人と武器・弾薬を積載した)と共に乗船し、函館回航して新潟港に入り「柏崎」をめざした。

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「柏崎」に入った定敬は閏四月十六日(6月6日)西軍が鯨波へ侵軍中との報に出陣となり、定敬は飛び領地の「加茂」へ移動した。

松平定敬~兄・容保とともに戦った桑名藩主の幕末明治

松平定敬宿陣後=興徳寺

桑名藩興徳寺

〈海老名群治邸跡〉

名は李昌(ときまさ)。海老名衛門秀久の長男。文久三年(1863)、父の隠居により家禄を継ぎ、翌元治元年勤番として京都にのぼり、同年7月「禁門の変」で戦功を立てて使番に昇進。慶応二年(1866)常詰の大砲組組頭となったが、10月パリ万国博覧会に出席する徳川昭武の随行員に任命され、翌年5月横浜を出港して仏・英・米・露・伊・蘭を随訪して12月に帰国した。慶応四年正月鳥羽伏見の戦争に従軍して銃創を負い、2月に会津に帰り奉行、若年寄を経て、8月には会津藩最後の家老となった。開城後、各地で謹慎生活を送り、明治五年赦免ののち「斗南藩」の重臣となり(三戸支庁に出仕)6年上京する。8年警視庁に入り山形県警部、北会津郡長などを経て警視庁幹部となり、明治25年に退職して会津若松に帰ってきた。その後、若松町長、士族同志会長等をつとめ、大正3年8月23日72歳で没した。妻リンの影響で晩年はクリスチャンとなった。

2015年5月18日撮影

海老名群治邸跡

〈請西藩主林忠崇、及び旧幕遊撃隊〉

房総木更津「請西(じょうさい)藩」の林忠崇(二十一歳)は慶応三年(1867年)の「大政奉還」の年に十四代藩主となった。鳥羽伏見の戦い後、徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎生活に入ると、納得できないと江戸を脱出した旧幕府歩兵隊の「遊撃隊」の人見勝太郎、伊庭八郎ら幕臣は三十数人を率いて請西藩の真武根(まぶね)陣屋を訪ね、林忠崇藩主に拝謁し同盟を結び、西軍と戦うことになった。

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「遊撃隊」は「将軍の親衛隊」的存在であったのだが、慶喜の謹慎でその警護をよしとせず、上野山から脱け出してきたのである。林は生来直情的な性格から、直ちに同意し七十五名の藩士と共に参加し、二度と帰藩せぬ覚悟から「真武根陣屋」に放火し、遊撃隊の両隊長、伊庭、人見らと共に館林港から真鶴に上陸し「紀伊・尾張・彦根」三藩の問責を揚げて東海道の諸藩に檄を飛ばすが、幕臣の山岡鉄舟に説得され不本意ながら沼津に退き滞陣を続けていた。

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五月十五日(7月4日)「上野戦争」が勃発し「遊撃隊」の第一隊(隊長人見勝太郎)は、その応援のため「箱根関所」へ進出し占拠した。それを知った第二隊(伊庭八郎)、林忠崇の隊も「箱根」に集結した。関門は小田原藩の管轄であったため「和議」が成立し遊撃隊と小田原藩は同盟を結んだが、小田原藩は西軍へ恭順し、五月二十六日(7月15日)西軍・小田原藩との戦いが開始され、伊庭八郎は左手に重傷(後に切断)を負い、敗走する。この時、人見勝太郎は数日前に旧幕海軍に応援要請に赴き、帰途の半ばであった。人見は敗走する隊士を追って「熱海」に集結させ、舟を集め、旧幕海軍の元へ避難した。

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人見勝太郎は負傷者を海軍に託し、新たに隊士を募り、林忠崇と共に館山に戻り隊を再編し「舘山港」から再び出航し、六月二日(7月21日)磐城「小名浜港」に入り上陸、会津へ向かわんとするが、「奥羽越列藩同盟」の依頼に応え、会津藩士渡部綱之助の純義隊らと共に磐城に於いて西軍と戦いを展開することになっていく。(会津戊辰戦争(九)参照)

請西藩林忠崇

桧原の街並み

六月二日(7月21日)「小名浜港」に入り上陸後、磐城方面で同盟軍と共に西軍と戦いを展開するが、泉・湯長谷藩が落城し、平藩が七月十三日(8月3日)ついに落城し七月二十三日に会津若松に入ったのである。当然、この頃会津藩は戦いを続けている最中であり、その参戦に応じたものと思われるが八月五日(9月20日)請西藩主林忠崇ら一行は会津に在った仙台藩士国分平蔵の案内で若松を出立する。遊撃隊も一緒であった。

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この後、八月二十六日(10月11日)旧幕海軍が仙台港に入港する。しかし、仙台藩が九月十五日(10月30日)「降伏恭順」に決定すると、請西藩主林忠崇一行は降伏することとなり、人見勝太郎率いる遊撃隊は旧幕海軍に合流し「蝦夷」へ渡航に決し、榎本武陽らと共に「函館」をめざした(遊撃隊については「函館戦争」参照)

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※現在の「桧原」は1888年(明治21年)7月15hの磐梯山の噴火によって「桧原湖」ができ、その湖に埋没され、現在の地に移動した。会津から米沢への旧街道(米沢街道)に沿ってある。

2008年10月19日撮影

桧原の街並み

資料=房総通史1959年(昭和34年)5月30日発行

因みに請西藩主・林昌之助忠崇については(会津戊辰戦争(壱-1)(同九)に詳述してある。

房総(富津)、品川沿岸警備

房総通史

その他「来援諸隊」

以上、記載した以外の「来援諸隊」については、その都度記載していくことにする。

(1)旧幕軍(大鳥圭介総督中心)「会津戊辰戦争(四)(拾~拾二)」

(2)水戸諸生党「会津戊辰戦争(参)(拾)(拾三)」

(3)飯野藩「会津戊辰戦争(七)」

(4)高田藩(白河・釜子陣屋詰藩士)(実際は「白河の戦い」で参戦してくるが特に諸隊ではない)

(5)郡上藩凌霜隊「会津戊辰戦争(四)(七)(拾~)」

旧幕陸軍歩兵隊の江戸脱走と古屋佐久左衛門らによるその鎮撫

その他

 

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