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旧幕典医の松本良順と旧幕府老中板倉勝静、会津若松へ

日新館訓会津戊辰戦争(弐-三)

会津若松で奮闘した土方歳三

旧幕典医の松本良順と

旧幕府老中板倉勝静、会津若松へ

 

〈旧幕典医・松本良順、若松城下へ〉

旧幕典医の松本良順が若松城下に入ったのは恐らく江戸城明け渡しの前後(四月十一日=5月3日)の頃であったと思われる。

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会津に入ってからは「藩校・日新館」に滞在し、医学の指導をするかたわら、やがて各地で戦いが展開され、負傷者が送られてくると、その治療に当たった。新選組土方歳三も足に負傷し来援すると治療を受けている。

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また長岡落城により河井継之助が会津只見まで戸板で(重傷)逃れてきた時、只見まで診察に出掛け、早く会津に入り治療するよう勧めている。

松本良順

松本良順資料

松本良順

松本良順

松本良順

会津藩校・日新館の天文台跡

2006年6月18日撮影

松本良順

天文台跡から城を望む。

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日新館跡の一角から西の丸・天守閣を望む。

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松本良順は松平容保が京都守護職時代に将軍上洛と共に京洛にに入り、新選組などの助言をしたりしていて新選組の良き理解者であったという。

2006年6月18日撮影

会津藩校・日新館の天文台跡

現在の若松商業高校内に建つ

会津藩校日新館南門礎石 2008年5月4日撮影

白虎隊伝承記念館前に展示されている。

白虎隊母校日新館焼石 2003年8月11日撮影

会津藩校・日新館跡

会津藩校 日新館訓

日新館訓

会津藩校・日新館訓

会津藩校・日新館訓

会津藩校・日新館訓

 

会津藩校・日新館訓

会津藩校・日新館訓

会津藩校・日新館訓

会津藩校・日新館訓

〈旧幕府老中、板倉勝静(備中松山藩主)一行、若松へ〉

旧幕閣・老中であった板倉勝静は、容保らと同様、二月十日(3月3日)旧幕府より登城禁止され、藩邸で謹慎していたが、主戦論者が次々と江戸を脱ける事に、三月九日(4月1日)板倉も日光へ向かった。本藩はすでに西軍に恭順していたため、板倉は本藩への帰藩は考えられなかったのであろう。

旧幕府老中板倉勝静

歴史研究2004年・12月号より

歴史研究2004年12.月号より

歴史研究2004年12.月号より

歴史研究2004年12.月号より

歴史研究2004年12.月号より

〈板倉勝静、日光から会津へ〉

江戸藩士らは日光行きに備えて(道中の危機)会津藩による擁護の依頼を会津藩に申し込んできた。三月九日、会津藩士は殆ど帰国し、藩邸(和田倉門内)はすでに旧幕府に引き渡してあり、江戸残留組の宿に訪ねてきたのだろうか。資料によれば、会津藩側は当時用人であった手代木直右衛門、神尾鉄之丞、秋月悌二朗、広沢富次郎らが面談に出席している。三月五日に家老西郷頼母が最後に和田倉門内上屋敷を出立している。まだ会津藩三田屋敷は引き渡さずにいたのか。用人役は藩邸ではなく、市中に宿を設ける慣例はあったが・・・。

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ともあれ、板倉勝静はわが子と藩士を八十名余を連れ日光に向かった。日光「南照院」に滞在し謹慎していたが、西軍(彦根藩)が宇都宮に入り今市、日光巡祖の折、西軍に捕らわれ、僅かな藩士と共に、宇都宮城下「英厳寺」に幽居させられてしまった。四月十九日(5月11日)旧幕軍の宇都宮城攻略時に救い出され、再び日光へ赴くが、再び西軍が宇都宮城を奪還し、日光へ侵軍するとの報に板倉勝静一行は、四月二十七、八日頃、日光を出立し会津若松をめざした。

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板倉勝静が日光に於いて謹慎生活に入った当初は、江戸詰め藩士も(約八十名)随行してきたが、四月に西軍に捕捉された時、その殆どの藩士が涙を飲んで西軍に降伏したという。残った藩士は十五、六名であったと伝わる。「宇都宮城の戦い」時に英厳寺に幽閉されていたが、藩士らは西軍陣営が江戸へ送還されたと思われる。

板倉勝静若松へ

井上浄光寺

2008年5月4日撮影

井上浄光寺

棚倉藩主と長岡藩主の宿陣跡

 

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