水戸藩邸(小石川後楽園)
〈諸藩の重臣、水戸藩邸に参集する〉
一月十八日(2月11日)江戸在住の二十六の諸藩の重臣が、小石川の水戸藩屋敷に参集して西軍が発令した徳川慶喜大逆賊の「勅書」に対して、その汚名を撤回させようと諸藩の重臣が「建白書」を作り提出することを定めた。誰がどこの藩が持ち掛けたのかは分からないが、しかし、この建白書が朝廷へ届いたのかも定かではない。
〈水戸藩邸正門跡と赤門跡〉
小石川後楽園
左頁の「山上門」が在った江戸屋敷(藩主常駐)の正門跡
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藤田東湖に学ばんと諸国の志士が出入りした「赤門」
〈江戸・小石川の水戸藩邸跡〉
「大政奉還」「王政復古」「将軍返上」「孝明天皇崩御」「公武合体政策」等々の時の情勢から「薩摩屋敷焼き払い」「徳川家の辞官・納地の返上」要求による薩摩・長州藩の「朝廷」の名の下に強引な行為から、ついに「鳥羽伏見の戦い」に至り「朝敵」の名をつけられた旧幕府の思いを語り、その汚名を取り払うべき「紀州藩」から江戸詰の諸藩に「評議」の招集があり、一月十八日(2月11日)「水戸藩・小石川屋敷」に於いて行われた。
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出席した「会津藩」「桑名藩」は京洛に於ける薩長の非を語ったものと思われる。
薩摩・長州藩は「攘夷」がどれ程難しく、外国の戦力が槍・刀では通用しない事をすでに体験していながら、長きに渡って「外様」としてすごし、その怨念は計り知れないものがあったのだろう。「公武合体」で難局を乗り切ろうする「幕府」「幕藩体制」も限界ではあったが、「攘夷」を揚げ幕府を窮地に追い込み、「討幕」と突き進んでいた「薩長」にとって、徳川慶喜の「大政奉還」は思いがけない事であった。しかし「徳川」が政事の場にある以上は安心できず、どうしても討幕に走らなければ、納まらなかった情勢であった。
〈築地塀と石垣〉
〈説明文〉
江戸城外堀石垣を利用した石積
左手(写真下)築地塀の石垣の一部(プレート設置場所=色のついた石)は、江戸城鍛冶橋門北側外堀跡(千代田区丸の内一丁目)から出土した石垣の石材を使い、本園の作られた江戸時代初期(17世紀初頭)の「打ち込みハギ」と呼ばれる、石積の技法で再現した。石材には備中(岡山県)成羽(なりわ)藩主山崎家の 山 をはじめ、石垣を築いた大名を表す「刻印」や石割の際の「矢穴」が残っている。数字は発掘調査で出土した時、付けた番号である。
〈八卦堂跡〉
二代光圀七歳のとき(将軍家光に謁見した折「大昌畳」像を頂戴した。後に光圀は文学を好むようになり大昌畳を思い起こし八卦堂を造り、その像を安置したという。なお、この堂は大正十二年(1923年)の関東大震災で焼失した。
〈園庭〉
徳川慶喜は「天皇に政権を返上したのであって、薩長に返上したおぼえはない」の気持であった。「王政復古」により「将軍職」の廃止、旧幕府の組織「京都守護職」「京都所司代」の廃止「徳川家の納地返上」の「朝命」の動きを知った時、徳川慶喜は顔色一つ変えず淡々と受け流したという。さらに会津・桑名藩主にもその内容は告げなかったという。「禁門の変(蛤御門の変)」のような戦いは起こしたいとは考えなかった。
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「孝明天皇」の突然の崩御後、まだ幼少な「天皇」を擁した岩倉具視らの薩長と通じた「朝廷」は、徳川家の壊滅を画策し、そしてついに「鳥羽伏見の戦い」へとなっていったのである。
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諸外国が日本を虎視眈々と狙っていた幕末に、近代化は避けて通れないものであった事は事実であろう。しかし、徳川慶喜は「水戸学」で育ち天皇に対する気持ちは強くあり「政権返上」は決して薩長に返上したものではなく、幼少な天皇を擁して「朝廷」を牛耳って一方的な政事には許せないものがあったのであろう。
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しかし、この「水戸邸」に於ける「諸藩の評議」後、徳川慶喜は次第に「恭順・謹慎」に傾いていくのである。
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「水戸藩書院」の在った所という。

〈台御殿跡〉と〈内庭跡〉(下)
「屏風岩」 「通天橋」
〈円月橋〉
朱舜水の設計と指導により、名工「駒橋嘉兵衛」が造った。橋が水面に写る影が満月になることからこの名がつけられた。後に八代将軍吉宗が江戸城吹上の庭に造ろうとしたが遂に果たせなかったといわれている。
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〈清水観音堂跡〉
京都清水寺を写した官能動画あったが、大正十二年(1923年)の関東大震災で焼失した。
〈唐門跡〉
〈説明文〉
内庭から校園に入る門で唐様の極彩色の彫刻をもった壮麗な建築物で朱舜水の書いた「後楽園」の扁額がかけられていたが、戦災で焼失した。

小石川後楽園パンフレット
〈得仁堂〉
光圀十八歳の時史記「伯夷列伝」を読み感銘を受け、伯夷(はくい)叔斉(しゅくせい)の木像を安置した堂。
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〈寝覚の滝〉(ねざめのたき)
内庭池水の末流が滝となって木曽側に落ちるところで、木曽路の名所「寝覚の床」にちなんで呼ばれている。
〈瘞鷂碑(えいようひ)〉
七代治紀は将軍家から賜った鷹を大切にしていた。鷹は治紀が没した四年後に亡くなったため、八代斉脩がこれを悲しみ碑を建てたものである。
涵徳亭
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