桑名藩主松平定敬の動向と鯨波の戦いでの桑名藩士立見鑑三郎の活躍
会津藩長岡藩との同盟不成立
衝鋒隊の全集結後与板藩領へ

〈会津藩諸隊「妙見村」に集結す〉

〈佐川官兵衛、長岡藩軍事総師の河井継之助と面談する〉


〈越後口総督一瀬要人、長岡城下で宿陣〉

〈衝峰隊集結〉

〈村松藩動向〉

〈衝鋒隊、全軍集結する〉〈妙法寺の超願寺〉
一方、会津一瀬要人との面談で意見の相違から妙見を出立した衝鋒隊古屋佐久左衛門の率いる一隊は、信濃川を渡り、城下北西の宮本村まで進み、宿陣する。
-◇-
翌早暁(閏四月二十八日=6月18日)、鯨波と女山に布陣していた二隊も退去し、妙法寺に布陣との報に出立した古屋らは、そこで全軍合流し桑名藩とともに宿陣した。鯨波にも応援として出陣していた会津・浮撃隊も一緒であった。
-◇-
衝鋒隊は超願寺に、桑名藩は光徳寺に着陣し、それぞれ本陣とし守備陣営となった。浮撃隊は恐らく衝鋒隊と同じではないかと思われる。
〈会津藩諸隊、転陣〉
閏四月二十七日に長岡藩本営に於いて面談し奥羽列藩同盟への加盟などを話し合ったが、逆に会津藩の領内退去を言い渡されていた。二十八日長岡城に入り、二十九日(6月19日)諸隊を率いて、さらに移動し長岡藩および西軍の動勢を探索していた。
-◇-
佐川官兵衛は与板城に入り面談し、同盟への加盟を話し合いたかったようだが、西軍寄りの与板藩は城門を固く閉じ、鳴りを潜めて応対にも応じる様子もない。本陣にと考えていた会津藩は強引に入城すれば騒ぎになると思いとどめたという。約六百人の部隊に対する二万石の与板藩では対抗するもかなわず、ただ静かに時の過ぎるのを待つしかなかったのであろう。会津藩諸隊は超妙寺(長明寺か)城下へ宿陣する。一部の隊は脇野宿へ宿陣する。
〈与板城跡〉と〈城下町跡〉
与板藩(藩主井伊直安)は初代藩主直矩が遠江国(掛川)から入封し 頸城・刈羽・三島郡内に万石を領して以来、井伊家が継いできた。彦根藩井伊家が本家である。譜代大名であるが、本家はすでに西軍に恭順し、西軍の一軍として出陣し、北関東方面で戦っている。与板藩も西軍寄りであった。
-◇-
以前、衝鋒隊が信州・中野陣屋をめざし出陣の折、与板に入り乱暴・狼藉を働いた事もあり、また武装した会津藩諸隊が入ってきたのに、村民・町民は驚いた事と思われる。
〈与板城跡〉(与板町ふれあい交流センター)
説明文(前略す)
与板城は宝永三年(1706年)初代藩主井伊直矩が遠江国掛川(静岡県掛川)から入封し、頸城郡・刈羽郡・三島郡内に二万石を領して以来、途中領地の変換はあるものの、明治維新まで続いた。六代藩主直朗は文化元年(1804年)城主格昇任にともない、築城を計画、七代藩主直輝にいたり、文政三年(1820年)から三年を費やして与板城を完成した。その後与板城は慶応四年(1868年)戊辰戦争の戦火により焼失した。(後略)
2003年10月14日撮影
下記資料は、前項の閏四月二十九日と同様の内容である。
-◇-
長岡藩家老河井継之助との面談で長岡藩領内からの退去を求められた会津藩佐川官兵衛らは信濃川を挟んだ(対岸)与板藩、城下へ入り宿陣、脇野宿、関原村へ進出した諸隊もあり、小千谷、小出島を失ったため、その奪回に滞陣を続けている。
-◇-
一方、西軍山道軍(軍監査岩村精一郎=土佐藩)は閏四月二十七日(6月17日)会津藩小千谷陣屋に入り、本営として滞陣している。海道軍も鯨波の戦い後撤退した東軍の柏崎へ入り、海岸沿いの北上を進めている情況であった。
-◇-
武装中立を貫く長岡城周辺に次第に戦雲が垂れ込めてきていた。
〈与板城址=直江山城守兼続〉
説明文
兼松公が与板城主になったのは天正九年(1851年)であり、上杉謙信の跡を嗣いだ上杉景勝の執政(家老)として活躍した。時に越後は幾多の難局に直面し、越後を脅かす織田信長軍・徳川家康軍・北条氏直軍との交戦、さらに佐渡・出羽庄内(山形県)の平定など戦闘が続いた。これは他国の侵略でもなく天下への野望でもない、ただ越後の安泰のためであった。公の居城は与板城(通称・城山)であり、直属の家臣は百二十名の与板衆でこれに強い権限を与え、土地を調べる検地葱奉行、上杉家臣団の給地のことにあたる知行地宛奉行、上杉家直轄の耕地に関する蔵入奉行から庄内・佐渡代官などの要職も、与板衆を中心に行った。また水利事業による農政をはじめ、産業の振興んあど越後全土にわたる国づくりの基礎をつくったのである。公はまた学問をよくし、施政繁忙の中でも和漢の学をひもとき、少閑あればよく詩を詠んだ高雅な人柄である。まさに文武兼ね備えた英傑であった。(後略)
2003年10月14日撮影
新潟別院
文政六年(1823年)与板藩主井伊直輝により築造される。明治四年(1871年)9月浄土真宗・本願寺派与板別院(現・新潟別院)に移築された。本柱の間の門扉は厚い鉄板に縦に板が張ってあり、屋根は切妻造、本柱と控柱の間に小屋根がつき大手門にふさわしい風格である。
コメント