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会津藩長岡藩との同盟不成立、衝鋒隊の全集結後与板藩領へ

長岡藩本営跡=光福寺会津戊辰戦争(参-壱)

桑名藩主松平定敬の動向と鯨波の戦いでの桑名藩士立見鑑三郎の活躍

 

会津藩長岡藩との同盟不成立

衝鋒隊の全集結後与板藩領へ

〈会津藩諸隊「妙見村」に集結す〉

三国峠・雪峠・小出島と破れ、そのため柏崎布陣の東軍も挟撃の恐れから妙法寺辺りに撤退した。小千谷に滞陣していた会津越後口総督一瀬要人は戦わずして妙見に退き陣営していた。
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一方、西軍山道軍は小千谷陣屋に難なく入り、本営を設けていた。(閏四月二十七日)海道軍も苦戦の末敗走したが、鯨波をこれも難なく通過し柏先に着陣する。(二十八日)
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戊辰の年は大雨の日が多かったといわれるが、この頃も雨の日が多く、信濃川は増水し、濁流となって激しい流れとなっていたという。
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妙見村は長岡藩領境である。会津藩は長岡城下を通行せず、妙見に入ったものと思われるが、その道程はよく分からない。当時、長岡藩は他藩の入領を認めていなかった。
会津諸隊妙見村へ集結

〈佐川官兵衛、長岡藩軍事総師の河井継之助と面談する〉

閏四月二十七日(6月17日)小千谷陣営の応援として駈け付けた会津藩諸隊(第一弾)は長岡藩領と元幕府領との境に当たる妙見村に集結していた。西軍はすでに会津藩が小千谷を撤退したため、無血で侵略し、布陣し榎峠まで侵攻していた。
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越後口総督一瀬要人は諸隊長らと評議し、小千谷の奪還を考えたようだ。そこで朱雀四番士中組隊長を長岡城へ向かわせ(会津・長岡同盟の画策)るが、長岡藩家老河井継之助は藩境の摂田屋の本営に出向いていたため、引き返し面談するが、武装中立を掲げる長岡藩は西軍との一戦は考えていなかった。同盟は成らず、逆に会津藩が勝手に長岡藩領に駐屯すること諫められ退去を求められてしまった。
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一方、一瀬要人は、三隊に分隊し、会津・桑名藩と共に鯨波・雪峠等々で戦っている衝鋒隊の総督古屋佐久左衛門が着陣し面談するが、戦略・戦術面で一致せず、古屋は宮本村へと出立していった。
佐川官兵衛、河井継之助と面談する
長岡藩本営跡=光福寺 2003年8月24日撮影
長岡藩本営跡=光福寺

〈越後口総督一瀬要人、長岡城下で宿陣〉

一瀬要人は、佐川官兵衛の河井継之助の面談の報告を受けたと思われるが、会津藩の入領を拒否されているにも拘わらず、長岡城下へ転陣している。そして、新たに出陣してきた砲兵隊の妙見の出陣を引き留めている。
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一瀬は改めて長岡城に訪れ、藩主に拝謁したが定かではないか城下に宿陣する。城下といっても外れの辺りに着陣したのではないだろうか。
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妙見に宿陣した諸隊は、西軍と対峙する事は、長岡藩に迷惑がかかる事から信濃川の対岸への転陣を考えていたようである。翌二十八日の朝には長岡城下に入り軍議を行い、二十九日には信濃川を渡り布陣したのである。
妙見村へ布陣

〈衝峰隊集結〉

会津藩のために戦った衝鋒隊は、再び小千谷に侵軍した西軍との戦いを軍議で主張したものと思われるが、一瀬要人は奇しくも断った。長岡藩の会津藩退去があったからなのか、その心理は分からない。会津藩は諸隊が集結し、さらに援軍が向かっていたのか—。
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衝鋒隊総督古屋佐久左衛門は、一瀬らとの軍議の後、長岡藩河井継之助とも面談しているが、会津藩同様退去を求められたのか、長岡城西方面宮本村へ転陣し、桑名藩と共に戦い、妙法寺に退いた衝鋒隊中軍と合流すべき出立した。さらに桑名藩の要請に応じ女山(柏崎の東方面)に出陣した衝鋒隊後軍も妙法寺に向かいここで全軍が合流した。
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一方、会津藩の諸隊も長岡をめざして出陣し、三条、見附から連日のように進軍していた。
衝峰隊全軍合流

〈村松藩動向〉

下記記載の試料中に長岡藩と軍議とあるが、朱雀隊・砲兵隊との軍議の間違いと思うのだが—。長岡藩から会津藩退去の命が出されている中での両藩の軍議とは思えないのある。
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一方、会津藩と頻繁に面談をしてきた村松藩は水原陣屋に滞陣する軍事方公用人秋月悌次郎を訪れ面談する。小千谷方面の情勢等々を語り合ったのであろうか。西軍の侵攻が迫ってくる風雲急なる中、奥羽列藩同盟も実質的に成立する情況である。越後六藩同加盟の村松藩にも飛び領地がある米沢藩士の訪問もあったのかも知れない。
村松藩動向

〈衝鋒隊、全軍集結する〉〈妙法寺の超願寺〉

一方、会津一瀬要人との面談で意見の相違から妙見を出立した衝鋒隊古屋佐久左衛門の率いる一隊は、信濃川を渡り、城下北西の宮本村まで進み、宿陣する。

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翌早暁(閏四月二十八日=6月18日)、鯨波と女山に布陣していた二隊も退去し、妙法寺に布陣との報に出立した古屋らは、そこで全軍合流し桑名藩とともに宿陣した。鯨波にも応援として出陣していた会津・浮撃隊も一緒であった。

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衝鋒隊は超願寺に、桑名藩は光徳寺に着陣し、それぞれ本陣とし守備陣営となった。浮撃隊は恐らく衝鋒隊と同じではないかと思われる。

衝鋒隊全軍妙法寺に集結

 

〈会津藩諸隊、転陣〉

閏四月二十七日に長岡藩本営に於いて面談し奥羽列藩同盟への加盟などを話し合ったが、逆に会津藩の領内退去を言い渡されていた。二十八日長岡城に入り、二十九日(6月19日)諸隊を率いて、さらに移動し長岡藩および西軍の動勢を探索していた。

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佐川官兵衛は与板城に入り面談し、同盟への加盟を話し合いたかったようだが、西軍寄りの与板藩は城門を固く閉じ、鳴りを潜めて応対にも応じる様子もない。本陣にと考えていた会津藩は強引に入城すれば騒ぎになると思いとどめたという。約六百人の部隊に対する二万石の与板藩では対抗するもかなわず、ただ静かに時の過ぎるのを待つしかなかったのであろう。会津藩諸隊は超妙寺(長明寺か)城下へ宿陣する。一部の隊は脇野宿へ宿陣する。

会津藩諸隊、転陣

〈与板城跡〉と〈城下町跡〉

与板藩(藩主井伊直安)は初代藩主直矩が遠江国(掛川)から入封し 頸城・刈羽・三島郡内に万石を領して以来、井伊家が継いできた。彦根藩井伊家が本家である。譜代大名であるが、本家はすでに西軍に恭順し、西軍の一軍として出陣し、北関東方面で戦っている。与板藩も西軍寄りであった。

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以前、衝鋒隊が信州・中野陣屋をめざし出陣の折、与板に入り乱暴・狼藉を働いた事もあり、また武装した会津藩諸隊が入ってきたのに、村民・町民は驚いた事と思われる。

与板城跡

 

〈与板城跡〉(与板町ふれあい交流センター)

説明文(前略す)

与板城は宝永三年(1706年)初代藩主井伊直矩が遠江国掛川(静岡県掛川)から入封し、頸城郡・刈羽郡・三島郡内に二万石を領して以来、途中領地の変換はあるものの、明治維新まで続いた。六代藩主直朗は文化元年(1804年)城主格昇任にともない、築城を計画、七代藩主直輝にいたり、文政三年(1820年)から三年を費やして与板城を完成した。その後与板城は慶応四年(1868年)戊辰戦争の戦火により焼失した。(後略)

2003年10月14日撮影

与板城跡

 

下記資料は、前項の閏四月二十九日と同様の内容である。

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長岡藩家老河井継之助との面談で長岡藩領内からの退去を求められた会津藩佐川官兵衛らは信濃川を挟んだ(対岸)与板藩、城下へ入り宿陣、脇野宿、関原村へ進出した諸隊もあり、小千谷、小出島を失ったため、その奪回に滞陣を続けている。

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一方、西軍山道軍(軍監査岩村精一郎=土佐藩)は閏四月二十七日(6月17日)会津藩小千谷陣屋に入り、本営として滞陣している。海道軍も鯨波の戦い後撤退した東軍の柏崎へ入り、海岸沿いの北上を進めている情況であった。

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武装中立を貫く長岡城周辺に次第に戦雲が垂れ込めてきていた。

〈与板城址=直江山城守兼続〉

説明文

兼松公が与板城主になったのは天正九年(1851年)であり、上杉謙信の跡を嗣いだ上杉景勝の執政(家老)として活躍した。時に越後は幾多の難局に直面し、越後を脅かす織田信長軍・徳川家康軍・北条氏直軍との交戦、さらに佐渡・出羽庄内(山形県)の平定など戦闘が続いた。これは他国の侵略でもなく天下への野望でもない、ただ越後の安泰のためであった。公の居城は与板城(通称・城山)であり、直属の家臣は百二十名の与板衆でこれに強い権限を与え、土地を調べる検地葱奉行、上杉家臣団の給地のことにあたる知行地宛奉行、上杉家直轄の耕地に関する蔵入奉行から庄内・佐渡代官などの要職も、与板衆を中心に行った。また水利事業による農政をはじめ、産業の振興んあど越後全土にわたる国づくりの基礎をつくったのである。公はまた学問をよくし、施政繁忙の中でも和漢の学をひもとき、少閑あればよく詩を詠んだ高雅な人柄である。まさに文武兼ね備えた英傑であった。(後略)

2003年10月14日撮影

与板城址=直江山城守兼続

新潟別院

文政六年(1823年)与板藩主井伊直輝により築造される。明治四年(1871年)9月浄土真宗・本願寺派与板別院(現・新潟別院)に移築された。本柱の間の門扉は厚い鉄板に縦に板が張ってあり、屋根は切妻造、本柱と控柱の間に小屋根がつき大手門にふさわしい風格である。

片見の戦い・会津藩諸隊長岡へ・慈眼寺

新潟別院

本願寺新潟別院

 

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