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村松藩への出兵要請、西軍長岡城攻略へ

長岡城攻略へ会津戊辰戦争(参-二)

司馬遼太郎「峠」の文学碑

 

村松藩への出兵要請、西軍長岡城攻略へ

 

〈同盟軍の動向〉

朝日山の攻防戦を追ってきたが、西軍は朝日山、榎峠の侵略が難しいと知ると信濃川の西岸からの長岡城攻略に変更した。その動向を少し遡って追っていくことにする。

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同盟軍は五月十日、榎峠を奪還すると、翌日には朝日山を占拠し西軍の進軍をくぎづけにしてしまった。十三日の西軍の朝日山総攻撃をも撃退した同盟軍は西軍の進軍を阻止し続けた。

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朝日山、榎峠、妙見、六日市、金倉山一帯を防備陣でかためた同盟軍は本営を摂田屋・光福寺に置き戦闘の指揮をとっていた。会津藩越後口総督一瀬要人は長岡城下に本陣を置き滞陣していた。

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一方、会津藩水原陣屋では五月十三日(7月2日)下記のような事件が起きている。旧幕府旗本の坂本平弥は同志を率い、いつ若松に入ったのか分からないが衝鋒隊が三月二十五日(4月17日)に若松城に入り、松平容保に拝謁し、二十六日に越後に出立する時、共に同行し二十七日に水原陣屋に着陣、衝鋒隊は翌日に出立しているが、その時坂本平弥らは、しばらく水原にとどまり会津藩と共に出陣し戦いに参戦したようだが、元来旗本次男三男で編成された隊で粗暴で統率もなく行動していたようである。山上に宿陣中、横暴極まり、隊長の坂本平弥は水原に送還され処罰されたのであろう。残った隊士は会津藩遊撃隊隊長の佐藤織之進の配属となって海岸沿線の防備に出陣したようである。やがて出雲崎辺りで水戸諸生党の隊士がらの指揮の下に新遊撃隊として同盟軍と共に戦っていったようだ。※五月初旬までの添付してある資料には坂本平弥と隊の動向が記されてあるものが掲載されてある。

〈村松藩出兵要請に出陣する〉〈村松藩・宿陣跡=安善寺〉

会津藩は元々越後五泉付近に飛び領地を持っており、そのため村松藩とは以前から親密な関係であった。慶応四年(1868年)一日の鳥羽伏見の戦い以降も、村松藩士坪井静作(軍事方)が頻繁に面談を申し入れ、また会津若松城下にも訪来したりしている。但、小藩のため列藩同盟に加盟するも出兵は諸事情で難しい情況もあったものと思われる。が、朝日山の戦いが展開され西軍の攻撃も激しくなると、同盟軍も戦死傷者も出、その補充は限られており、同盟加盟藩の出兵が必要であった。見附に宿陣していた会津藩士斎藤条助は見附に出張していた村松藩軍事方稲毛源之右衛門らに面談し出兵の要請を申し入れ、村松藩も要請に応じて出兵・出陣することになったのである。

安善寺

正覚寺

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五月十五日(7月4日)には同盟軍・会津・桑名・長岡藩の重臣が村松城下に赴き正式に出兵の要請をしている。

〈村松藩の出兵要請する〉

長岡藩軍事総督河井継之助は、摂田屋の本営での軍議に基づき、五月十五日(7月4日)会津藩西郷源五郎(軍事方)、山田陽次郎、桑名藩士二名を同行させ村松城下に赴き列藩同盟に加盟した村松藩の出兵を要請した。村上藩、新発田藩は出兵させており、奥羽(庄内、米沢藩)からも出陣と聞いている河井にとって小藩といえども出兵に応じていない(一小隊程は出兵していたが)村松藩に出陣を強いたのであろう。さらなる出兵の要請であった。

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一方、五泉と水原の間の安田に布陣していた会津藩青龍三番士中組(木本慎吾隊長)のもとへ長岡城下への出陣要請(命令)が届いた。河井らと同行した西郷源五郎の使者であった。

〈西軍長岡城攻略を決する〉

一方、西軍は山道軍、海道軍の両参謀が小千谷本営で軍議を行い、関原村まで進軍した海道軍の軍監三好軍太郎と評議し長岡城攻略の作戦を練った。この頃海道軍は本営の指示により一隊を海岸沿いに残し山道軍援護のため内陸に進軍し薬師峠で東軍を破り関原に滞陣していたのである。

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西軍は信濃川の西側対岸よりの長岡城攻略に決し、三仏生や横渡村の砲陣営には榎峠、朝日山への砲撃を続行させ、同盟軍をくぎづけにさせておき、その隙に長岡城を攻略するーとの作戦であった。

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信濃川は百年来の大雨に増水し、濁流が渦を巻きながら激流となっていた。そのため西軍山道軍は本街道の進軍のため朝日山攻防戦を強いられてもいたのである。しかし、海道軍の軍監三好は海岸道を連勝して進軍していて意気は高かった。激流となっている信濃川の渡河を決意した。五月十六日(7月5日)三好はまず対岸の草生津まで進軍し、長岡藩の堤防に砲台を据え守備する陣地へ砲撃した。十二斤、十八斤の砲撃であった。さらに長岡市街へも破裂弾を撃ち込む攻撃であった。同盟軍の主力は朝日山方面へ出陣中である。長岡藩二小隊(約百名弱)、村松藩の一小隊(約四十名弱)が必死の応戦をした。この砲撃は海道軍の手探り(様子見)の攻撃であったようだ。河井継之助はまだ村松城下から帰陣途中であった。

北越戊辰戦争西軍信濃川を渡河

長岡城攻略へ

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