長岡城奪還へ向けての各地の戦い①

順動丸、寺泊沖で座礁会津戊辰戦争(参-二)

長岡城落城後、同盟軍加茂に集結、米沢藩庄内藩も参戦

長岡城奪還へ向けての各地の戦い①

 

 

〈杉沢村の戦い〉

五月二十一日(7月10日)栃堀で長岡・桑名藩諸隊と出会い協議を持ち加茂へ転陣と定めた会津藩萱野右兵衛らは二十二日杉沢村に宿陣。二十三日着陣した会津諸隊と合流する前に加茂に出立していた。

-◇-

五月二十三日(7月12日)、前日栃堀から杉沢に入り宿陣した会津藩(朱雀隊、砲兵隊)、長岡藩二小隊、村松藩一小隊が杉沢を守備していた。(桑名藩の一隊は長沢へ転陣する)やはり、前日見附に入った西軍は先鋒を掘溝村まで進軍させていた。その隊が明七つ(午前四時)頃より見附の本隊が攻撃の合図によって堀溝の一隊は進軍した。

-◇-

同盟軍は
(1)街道の十ヶ峰に会津藩
(2)赤坂口に長岡藩
(3)池の島口に長岡藩
がそれぞれ守備陣営していた。小雨が降り出してきた。この雨がやがて会津藩砲兵隊の弾薬が湿り発砲できない事になった。

-◇-

西軍(薩摩・長州・加賀)の一部は迂回路をとり、会津藩朱雀隊守備陣をやりすごし池の島の長岡藩陣営を攻撃、さらに朱雀隊陣営にも攻撃を開始した。最新洋式の西軍・長岡藩の激しい銃撃戦となった。

-◇-

会津藩佐川官兵衛率いる朱雀隊は長岡城落城より朝日山から栃尾方面に退き、この日杉沢の戦いを知り応援に駆けつけた。従って二十三日の同盟軍の軍議の決定は知らなかった。この杉沢の戦いの翌日、加茂に寝ずに進軍し入った。五月三十日まで滞陣することになる。

杉沢村の戦い

杉沢村の戦い

〈佐川官兵衛ら加茂へ〉

五月二十四日の杉沢の戦いに敗れた会津藩朱雀四番士中組(佐川官兵衛)、砲兵隊は二十五日加茂に入り宿陣する。越後口総督一瀬要人と面談、同盟軍の陣容を聞く。佐川らの朱雀隊、砲兵隊は負傷者も多く、滞陣となった。五月いっぱいの滞陣となるが、その間各地の偵察を行い二十九日に帰陣している。

佐川官兵衛加茂へ

〈長岡藩、長岡城奪還へ出陣する〉

五月二十三日の同盟軍の軍議に基づき、長岡藩は栃尾に侵出した西軍撃破のため三方面への出陣となった。米沢藩、村松藩も出陣する。

長岡藩、長岡城奪還へ出陣

長岡藩、長岡城奪還へ出陣

〈赤坂峠の戦い〉

会津藩青龍三番士中組(木本慎吾隊長)は長岡方面の援軍として水原陣屋を出陣し、五月十八日新津を出陣、十九日加茂を出陣、途中で長岡城の戦火を目にし、洪水で渡れぬ信濃川を迂回して三条の西大崎に至ると長岡城の落城を知り、戦況を見守るため、庄屋栗林七郎宅を本陣とし付近の村々に分宿し、評議の結果滞陣と定めた。そこへ旧幕衝鋒隊の中軍今井信郎隊長の隊が着陣し軍議を行い(衝鋒隊は加茂方面からきた)五月二十三日、全軍同盟軍の先鋒陣の見附をめざし進軍tなった。下田村の原村まで進むと日暮れとなり宿陣し、翌二十四日原村を出陣、赤坂峠へ差しかかると西軍(薩摩・長州・高田・松代藩)の攻撃を受け、戦いとなったのである。

赤坂峠の戦い

赤坂峠の戦い

〈西軍、初の艦砲射撃する〉

五月二十四日(7月13日)西軍・薩摩藩船乾行丸と長州藩船丁卯丸が寺泊沖に出航し、会津藩などに弾薬、兵器等々を輸送していた旧幕府輸送船順動丸を攻撃してきた。順動丸は軍艦ではないため、砲撃の反撃もできず西軍の砲撃を避けようとするが、左右から大砲を撃ちかけられ、つに座礁してしまう。乗船していた会津藩一柳幾馬、雑賀孫六郎ら水夫人(総勢九十余人)は船に火を放ち上陸する。

-◇-

一柳幾馬らは戦闘の用意もなかったのか皆弥彦へ退いた。一方、西軍軍艦は順動丸が自焼するのを見届けると、今度は会津藩が宿陣する宿に向けて艦砲射撃を開始する。庄内藩、水戸諸生党、会津藩佐藤織之助らは殆ど出雲崎へ出陣し、水戸諸生党、会津藩士二十余人が守備していただけで、それも水戸諸生党は(松宮雄次郎ら十余人)弥彦へ退却してしまい、佐藤織之助隊の二十余人は戦死(討死)の覚悟で、上陸すれば白兵戦と待ち受けていたという。しかし、上陸はないまま終わったという。

順動丸、寺泊沖で座礁

順動丸、寺泊沖で座礁

寺泊沖海戦

翌五月二十五日(7月14日)卯の刻(午前6時)すぎ再び西軍は軍艦二隻が押し寄せ未の刻(午後2時)すぎまで激しい砲撃が続いた。

-◇-

昨日の艦砲射撃により、直ちに弥彦、出雲崎へ援軍要請するが、どの諸隊も応援に駆けつけなかったという。守備する佐藤隊二十余人は昨日の経験からそれぞれが秘かに陣地を構築し、その中で上陸したなら討死覚悟で斬り込む手筈であった。

-◇-

この日も西軍の上陸は何故かなく、旧幕府船順動丸が完全に燃えつきるのを待っていたかのように引き揚げたという。西軍も上陸させる兵士(陸軍)の余裕がなかったのかもしれない。

-◇-

西軍丁卯丸は長州藩の軍艦で、イギリスで建造されたもので、この年が「ひのとう」であったため「丁卯(ていぼう)」と名付けられ、スクリュー推進の三本マスト、トップスル・スクーナー型砲艦で同一性能を二隻もっていたという。第一と第二と命名し、第一は六門、第二は八門の砲が搭載されいた。

寺泊沖海戦

長州藩船第一丁卯丸

〈赤坂古戦場跡〉

五月二十六日(7月15日)前日赤坂峠山麓に陣営していた西軍を撃破した同盟軍(会津・長岡・村松・衝鋒隊前軍)は再び西軍の主力が布陣する赤坂峠頂の陣営を攻撃、左右の小高き丘に登り銃撃、激しい攻防戦を展開するも西軍も必死の応戦、ついに峠周辺の陣地は攻略するが西軍の増援部隊が到着するに至り、山頂の本営を攻略することできずにいた。

-◇-

赤坂峠の戦い後、長澤村へ帰陣した青龍三番士中組の本陣の真向かいの民家より出火した。(夜の丑の刻)午前2時というから二十七日になる。たちまち火は燃え盛り消火はできない状態であった。西軍の二小隊が攻めてきたという。この火事は西軍を導いてきた間謀あ放火した事が後で判明する。西軍の攻撃に反撃しながら火事のため一旦原村へ退いた。翌日再び長沢に入り六月三日まで滞陣する。

赤坂峠の戦い

〈小栗山の戦い〉

一方、五月二十四日、杉沢攻略されるの報に加茂を出陣した同盟軍(長岡・衝鋒隊本隊)は小栗山に進軍した西軍を撃たんと大面に入り宿陣する。

-◇-

五月二十六日(7月15日)進撃の議決が中々決まらずに夜明けにようやく出陣する。西軍の小栗山の頂からの砲銃撃に米沢藩は弾薬尽きるを理由に前進しない。怒った衝鋒隊副隊長松田昌二朗は大砲を取って正面に据え砲撃を開始、また同永井蠖伸斎、木村大作らは山の左側に回り激しい銃撃の中、攻め登り猛射を展開、その隙を狙って自刃をかざして斬り込みをかけた。さすがに西軍は驚き陣容が崩れ敗走となった。衝鋒隊は米沢藩を率い追撃に移った。見附に迫った。西軍の応援隊が横射してくる。また一隊は帯織村方面から大面方面に進軍、挟撃する作戦のようだ。またしても米沢藩兵は驚き退き始めている。衝鋒隊は仕方なく小栗山村に放火し、帯織方面の西軍と戦おうと進撃するが、星雲はそれ以上の進軍を止めてしまった。同盟軍は大面に帰陣する。

小栗山の戦い

〈米沢藩、援軍相次ぐ〉

五月二十六日(7月15日)に加茂に着陣した米沢藩兵は新たに出陣してきた諸隊であった。奥羽越列藩同盟にが成ってから、米沢藩は奥羽方面は主に仙台藩に委ね、越後方面に主力を注いだ。また会津藩同様、武器(砲銃)弾薬等々の購入などは新潟港を使ってが殆どであったのである。

米沢藩援軍相次ぐ

米沢藩援軍相次ぐ

米沢藩援軍相次ぐ

寺泊に荷挙げて停泊中の旧幕府船が西軍の艦砲撃で座礁し自焼して上陸した会津藩一柳幾馬らは水夫(旧幕府員)らも率いて戦うことなく弥彦に退却して宿陣し、五月二十六日(7月15日)一小隊を率いて赤塚村に出立し途中竹槍を持つ村民を捕らえ連行し翌日には軍事方に村民の一揆取り締まりを命じる(出張)書を使者に持たせ新潟に向かった。しかし、村民の一揆には立ち向かうが艦砲射撃にも屈せず僅か二十余人で守備する寺泊に滞陣し、共に戦う姿勢がない事に会津人には残念至極な行為である。

-◇-

一方、五月二十六日(7月15日)新潟・燕に守備していた大庭源之助が残兵を率いて弥彦へ援軍として出陣するか、途中すでに西軍占領下と聞き引き返しているが、これも残念至極である。せめて斥候を出し情況把握くらいはあってもいい。しかも、西軍が占領とあれば寺泊、出雲崎方面の守備陣は挟撃の危険に立たされる事になるのである。

-◇-

西軍の弥彦占領はこの時はまだなかったものと思われる。もしあるとすれば軍艦か輸送船で上陸したのだろうか。まだ同盟軍はその中間に布陣しているのである。その後に挟撃した記録はない。

長岡城奪還へ向けての各地の戦い②

米沢藩援軍相次ぐ

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました