北越戊辰戦争長岡城落城

〈長岡城攻防戦〉(長岡郷土資料館)
西軍の城下侵入の報に摂田屋本営にいた河井継之助は馬をとばし中島村の黒煙を望みながら、まず渡里村方面に駈けつけ柿川に架かる橋を焼き落とす事を命じ急ぎ城内をめざした。
当時の長岡城の三重櫓を復元し郷土資料館となっている。
2003年8月24日撮影
〈長岡城本丸跡〉〈長岡駅・その周辺〉
〈長岡城本丸跡〉
急ぎ摂田屋から駈けつけた軍事総督河井継之助は渡里村から城下に侵攻する西軍を大手口にガドリング砲を据え、撃ち出し奮戦する。この時自ら射撃したという。この時、各方面から押し寄せる西軍の銃弾を左肩に受け負傷するが(軽傷であったようだ)猛射を続けたという。
河井は自ら連射して「どうだ、うまくあたるだろう」と味方を督励したという。
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しかし、西軍は続々援軍が繰り出され、防備が難しくなり河井は諸隊に城内に撤退令を出した。
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七十歳近い高野秀右衛門(山本五十六の祖父)は妻と共に自邸の土塀から和銃で応戦する。数人を倒すが弾薬が尽き、抜刀して斬り込み戦死する。
資料=戊辰戦争は今(上)会津戦争(下)
〈長岡城・二の丸跡〉
長岡城は石垣が少なく、大部分が低い土塁による平城で、要害となる濠も数ヵ所しかなく砲銃撃戦には不利な城郭であったが、その砲銃音が凄まじい中、投身の力を持った藩士が戦い行き交う中、河井は城下が燃えさかり朝日山方面のの主力部隊が駈け付ける前に、すでに西軍が充満し目前に迫る情況に、ある決断をしていた。
〈長岡城二の丸跡〉(城内稲荷神社)
西軍が信濃川を渡河し中島村に火を放ちながら進軍、その火の手がみるみる城下へと燃焼し市中は火の海と化した。市民の逃げまどう姿は婦女子の叫喚と相和して凄惨を極めたという。
〈二の丸跡と城下町跡〉
同盟軍の主力は榎峠、朝日山方面に布陣し、城内、城下を守るのは長岡、会津、村松藩合わせて四百人足らずであった。
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河井継之助は怒涛の如く押し寄せる西軍約一千五百人に対して防備は難しいと、まず藩主らを用人花輪彦左衛門らの扈従組(こじゅうぐみ)を率いさせ、郭外の普済寺に避け森立峠を越えさせ栃尾まで退かせ宿陣、翌二十日八十里越えて会津若松へ向かわせた。藩主は八十里越て叶津陣屋(会津藩)に着陣すると、僅かな供侍を望いて藩士を再び引き返させたという。
〈長岡城三階櫓=復元・郷土資料館〉
城中に集結した同盟軍は城を枕にして死を決しようと主張する者も多かったが、河井継之助は”策すべき後図のないわけではない〟と重臣牧野頼母らと共に説得し、城を退かせた。河井自身も敗兵を収拾し本丸の三階櫓に火を放たせ、藩士らを励ましまた逃げまどう市民らを誘導して、まず悠久山に退いた。この時河井は市民に”一粒の米を二つにしても食べさずに置かぬぞ、安心しろ„と叫び回ったという。
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悠久山に集結した長岡藩河井らは諸隊長を集め軍議を行った。遥かに黒煙のあがる長岡城を望見しながらの軍議であったという。ここで長岡城に固執するとの得策でないことを説き、栃尾に退き、再挙を計ることに決した。さらに榎峠、朝日山方面の守備陣にも、西軍に発砲しつつ栃尾に後退することを命じる使者を派遣した。
炎上する長岡城下
戊辰・河井継之助ゆかりの地ガイドブック
長岡市観光課発行ガイドブック

〈榎峠、妙見、朝日山の同盟軍撤退す〉(朝日山砲台跡)
一方、朝日山方面で砲撃戦を展開している同盟軍に長岡城への援軍要請が届く。まず、長岡藩川島億二郎、萩原要人、会津藩佐川官兵衛、桑名藩山脇十左衛門、町老之丞らは隊を率いて六日町まで至ると、すでに長岡城落城の報が届いた。直ちに軍議を開き、悠久山の麓の栖吉村へ向かうことに決した。この時、桑名藩立見鑑三郎は夜襲を提案するが、山脇・町田らに思い止められている。
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朝日山麓の寺沢に布陣していた会津藩萱野右兵衛隊は長岡城下の砲声を聞いて西軍の小千谷本営を衝こうと出陣するが荒谷村付近で西軍の守備陣と遭遇し迎撃され蘭木村に退いて軍議し長岡城落城なれば朝日山に戻っても仕方なく、会津へ向かうしかないと決し、まんじりともしない一夜を蘭木で明かし翌日、栃尾方面をめざすことにする。
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金倉山方面の諸隊も落城の報せに栃尾をめざす。
2003年10月28日撮影
〈柄倉神社=戊辰戦績記念碑〉
〈長岡藩主一行若松をめざす〉
長岡城落城となり、いち早く河井継之助の指揮により城を脱出した藩主牧野忠訓、前藩主(父)忠恭、婦人(妻)姫らを守護しながら供侍約八十人は森立峠を越え栃尾をめざした。
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森立峠の頂きには御野立所といわれる平垣地があり、炎上する城下を望み、皆涙したという。河井継之助は悲憤奪還の決意をもって、この場で軍議をしたという。
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栃尾に入った長岡藩は藩主一行の若松行きを決め、その供者を選び、藩主一行は八十里越へ出立し、河井らは奪還を胸に加茂をめざした。
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牧野忠訓藩主一行は五月二十一日(7月10日)只見村に入った。小さな山間の只見村は大変な事態であったという。会津藩野尻代官の丹波族は野尻から只見に出向いて一行を迎え、その宿割、糧食の手配と一切の陣頭指揮をとった。藩主一行は二十五日まで滞陣、その間藩主は供侍を長岡城奪還の戦いに参戦させるため、再び河井継之助らの元へ引き返させている。五月二十五日(7月14日)大塩、二十六日沼沢、二十七日柳津に入り、数日間滞陣し二日遅れに出立した婦人、姫らの到着を待ったという。婦人の足では八十里越はとても難渋し徒歩もできない程の疲労であったという。殆どが徒歩での進行であった。
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その後恐らく坂下、高久と宿泊し、六月上旬(7月中旬)に若松城下に入り健福寺に宿陣、滞陣となった。輪王寺宮の一行が若松城に入城した頃であろう。当然、松平容保らと共に拝謁もした事であろう。
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