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旧幕軍諸隊、唐津藩世子・小笠原長行、会津へ

御薬園の長屋跡と籍田式場跡会津戊辰戦争(弐-三)

会津藩四藩境への防備体制強化

旧幕軍諸隊、唐津藩世子・小笠原長行、会津へ

〈会津藩へ客将・兵、相次ぐ〉

三月に入ると、江戸では徳川慶喜の謹慎生活を続けていたが、会津藩に対しては恭順の姿勢ではあるが西軍に対しては武備する姿勢に旧幕府の中には「抗戦」の拠り所にしようとする気運が高まっていた。

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朝廷に対して「謝罪恭順」を示す会津藩であったが、西軍の会津追討の姿勢に変化がない所から武備を強化、藩境の守備を固めていく会津藩に心強さを抱く者もあったのである。

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軍需品の調達に連動して城下は大変な賑わいを見せてもいた。藩論も次第に徹底抗戦と移行する兆しが芽生えていく。

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四月閏四月になると、関東(下野、常総)等々で戦った旧幕軍もやがて会津をめざすことになっていく。

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(1)「衝鋒隊」三月二十二日(古屋隊長)二十五日(本隊)

(2)「新選組」四月二十九日(土方歳三ら)(流山で散り散りになった隊士はすでに城下にいたと思われる)

(3)「唐津藩主世子」小笠原長行一行、四月七日

(4)「備中松山藩主板倉勝静一行」閏四月五日

(5)「旧幕府陸軍奉行竹中重固」(輪王寺宮に同行して)

(6)「長岡藩主牧野忠訓」藩士

(7)「棚倉藩主阿部葆真」

(8)「桑名藩主松平定敬」藩士八月十六日

(9)旧幕軍(大鳥圭介)、伝習隊、第七連隊、御料兵、回天隊(左・右半隊)草風隊

(10)群上藩凌霜隊

(11)会津藩支藩「飯野藩士」

(12)上越高田藩士(白河・金子陣屋詰藩士)

(13)「水戸・諸生党」

(14)「奥羽列藩同盟」イ)二本松藩 ロ)仙台藩烏組

(15)房総「請西藩主林忠崇」一行

会津藩へ集結

〈若松城・蒲生時代の表門(大手門)跡〉

三月に水戸藩の「諸生党」が入ってきたのは例外として、三月一日(3月24ひ)信州中野陣屋へ鎮撫隊として江戸を出立した衝鋒隊(会津戊辰戦争参)が「柴田の戦い」後、会津をめざし会津西街道を北上し、三月二十五日(4月17日)若松城下に入り、松平容保に拝謁した。この頃は会津藩はまだ恭順の姿勢であり、諸藩・旧幕軍の入城を大ぴっらに認める情況ではなかった。従って長期の滞陣を許可することはできず、衝鋒隊も越後方面に出陣していくのである

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西軍の会津追討の手は揺るぐことなく、執拗に奥羽諸藩に命を発していた。しかし、奥羽諸藩の中でも雄藩である仙台・米沢藩は「会津藩救解」への道を探り始めていくのである。西藩士の動きも秘かにそれらの動きへと活発化していく。

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〈説明文〉〈本丸理門〉

天守閣の北東にあって本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる柵形の城門である。城内の他の門や建築物に比較して低い門構えで理門の形態をとっている。大手口が東側であった築城当時は表門であったが、寛永十六年(1639年)の加藤明成による改築後は裏門となっている。本丸奥御殿の勝手口としても重要な門である。

2004年8月29日撮影

若松城蒲生時代の表門

〈唐津藩世子・小笠原長行、若松へ〉

二月二十二日(3月15日)に若松へ帰国した松平容保は「恭順・謹慎」を示すために御薬園に入ったというが、その二日後に喜徳藩主から政務を託されていることから実質的にはこの御薬園には長期間滞在したとは考えにくい。

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会津藩士が帰国を開始した三月三日(3月26日)、幕閣(会津藩主世子)で主戦論者の一人で容保らと同様、江戸城登城を禁止され内々に江戸退去も旧幕府より言い渡されていた小笠原長行は江戸諸藩士十数人を率いて江戸を脱し、元領地であった棚倉へ向かった。奥羽諸藩の「会津救解」の動きを知ったのか、小笠原は棚倉を出て若松へ向かった。四月七日(4月29日)若松へ入った事から棚倉を立ったのは四月初め頃かも知れない。

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唐津藩士の先触れが若松城を訪ねたのは七日の数日前のことであろう。会津藩士らが出迎えていることから、そう推察できる。やがて「奥羽諸藩同盟」が成り「輪王寺宮」が若松に入り同盟の盟主となって白石城に入る時は重臣として同行する。

〈御薬園=会津松平氏庭園〉2003年7月5日撮影

御薬園

〈御薬園〉

四月七日(4月29日)城下「御薬園」には、藩士重臣諏訪常吉、道士坊主の山本道沢、医師らがすでに待機し小笠原一行を迎えた。八日には手代木直右衛門(家老)、大野英馬らがご機嫌伺いに小笠原を訪ね、家老萱野権兵衛の使番が差し入れた酒、料理等々で歓迎したという。その席上、容保が拝謁を望むが、小笠原は旅の疲れもあったのだろう、三日間の猶予を願い出たという。

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四月十三日(5月5日)藩主松平喜徳は、近くまで来たのでと小笠原長行を訪ね(お茶や菓子を持参して)約二時間位の面談後、午後五時半頃、喜徳は帰城する。

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四月十五日(5月7日)には、七日に小笠原を迎えた諏訪常吉が藩命により、米沢藩に使者として赴いていたが、若松城に戻り、再び小笠原を訪ね、米沢藩の会津救解の動静を語っている。この時、米沢藩用人・木滑要人、片山仁一郎も米沢藩使者として若松に入り、手代木直右衛門、小野権之丞らと面談の打ち合わせをしている。

左の建物=御茶屋御殿

正面=重陽閣

重陽閣は秩父宮勢津子姫殿下ご一家が泊まられた新滝旅館が昭和48年(1973年)に移築したものという。お茶屋御殿は西軍が城下に侵入後、西軍負傷者の治療所として使われた。建物の数か所に刃痕があるという。

御薬園

〈御薬園=お茶屋御殿と楽寿亭(下)〉

四月十六日(5月8日)家老西郷頼母が松平容保の使者として訪ねる。小笠原長行は若殿の身で老中となり、幕府の改革に貢献している。本藩は西軍に恭順しており、本国に帰藩せずに幕府の重臣として「戊辰戦争」にかかわっていく。

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四月十九日(5月11日)山川大蔵は鋳金について小笠原から製造法などについて教わったものと思われる。

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「楽寿亭」藩主が茶をたしなんだという。

2003年7月5日撮影

お茶屋御殿と楽寿亭

〈説明文〉

〈名勝会津松平氏庭園〉

旧会津藩主松平氏の別荘でもと藩の薬園のあったことから「御薬園」の名で親しまれている。庭園の築造年月は明らかではないが、江戸時代中期の作庭手法をよく伝えている。中央に池を広くとり中島をおき茶室を設けて楽寿亭と称する。池の奥、右に男滝、左に女滝がある。後方に低い築山を設けて東山連峰の風景豊かに取り入れ、また石敷路をたどって池畔をめぐる風到も変化に富んでいる。江戸時代の大名庭の形式による山水庭として優れた庭園であり文化財保護法による名勝として保護されている。

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四月二十九日(5月21日)家老内藤介右衛門・諏訪伊介・一瀬要人が訪ね、旧幕軍の「宇都宮の戦い」や仙台・米沢藩との休戦などを語ったという。

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四月に入ると会津藩も朝廷への嘆願、奥羽諸藩との交渉が頻繁に行われている。「奥羽列藩同盟」で詳述するが、すでに西軍は奥羽鎮撫総督一行が仙台領に入っており、会津追討を執拗に迫っていたのである。

2003年8月11日撮影

御薬園

御薬園

〈御薬園の長屋門跡〉(上)〈籍田式場跡〉(下)

明治二年(1869年)三月、側室・名賀は松平容保の実娘「美弥」姫をこの御薬園で出産している。

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京洛時代の五年間、病弱のせいもあったが、容保は側室も置かずに孝明天皇、公武合体の促進に日夜心苦をのり越えて奮闘していたのである。

会津若松で奮闘した土方歳三

御薬園の長屋跡と籍田式場跡

〈御薬園パンフレット〉

御薬園パンフレット

御薬園パンフレット

御薬園パンフレット

 

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