〈薩長、武力討幕へ暗躍する〉
十月十四日、徳川慶喜の「大政奉還」にょって秘かに「討幕」を模索していた薩長は、出鼻をくじかれた格好となったが、十一月十八日岩倉具視を朝廷に復権させ討幕の画策をしきりに行わせた。そして朝廷内から「公武合体」派の公卿を徐々に追い出し、急進的な中山忠能、三条実愛らが岩倉と共に実権を握り、まだ十五歳の天皇を抱き込み「王政復古」へと画策するに至る。一方、薩長は国元に急使を送り「出兵」を要請し、十一月には京都に到着させていた。
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用意周到に「討幕」への地盤を固めた上での「小御所での会議」が十二月九日(1868年1月3日)行われ、徳川慶喜の納地・辞官を決め、御所の警備から会津・桑名藩を外した。そして「王政復古」の大号令を布告するのである。
王政復古の大号令
薩摩・西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視公卿は「王政復古」の骨子が固まると十二月八日(1月2日)午前八時「小御所会議」を開いたのである。議題は長州藩の「朝敵」の処分の取り消しであった。
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この日の会議には徳川慶喜、松平容保、松平定敬らは「病気」を理由に姿を見せなかった。
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さらに西郷・岩倉らは翌九日にも「小御所会議」を開き、すでに岩倉らが作成した「王政復古」の「勅書」を天皇に奏呈し、天皇は許諾し、それを岩倉は「会議」の席上発表し、「王政復古」が発せられたのである。
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ここに、ついに幕府の職制は廃止させられ、将軍職、守護職、所司代、朝廷の摂政、関白、議奏もなくなり、新たに
総裁 有栖川宮織仁親王
副総裁 仁和寺宮、山階宮
中山忠能・三条実愛・中御門経之の公卿
議定 徳川慶勝(尾張藩主)、松平慶永(越前藩主=春嶽)、浅野茂勲(芸州広島藩主)
山内容堂(土佐藩主)、島津忠義(薩摩藩主)
参議(与) 西郷隆盛、大久保利通
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この日の会議は御所警護(九門)は薩摩藩が主力となって固め、許可者以外の入所を差し止めていた。朝廷の旧制度も廃止させたため、摂政(二条斉敬)らも参内していない。上記の氏名の外、議定は十名、参与十三名が任命されているが、前将軍慶喜、会津藩松平容保、桑名藩松平定敬らの名はなかったのである。
初の「閣議」
十月九日「王政復古」が発せられ、その夜、初の「閣議」が開かれた。議題は徳川慶喜の「官位剥脱」と「領地返上」であった。「公武合体」推進論者の土佐藩主山内容堂は、さすがに強硬に反対し、会議は紛糾した。一旦、休憩となる。この時、会議の推移を見守っていた西郷隆盛は、岩倉卿に「短刀一本あれば片付くことではないか」と伝えたという。西郷らはあくまでも「討幕」であり、幕府の復権となる慶喜らの参政は絶対に認められなかったのである。
徳川慶喜の「納地納官」
短刀を懐に忍ばせて会議に臨んだ岩倉の気迫に、山内容堂もついに沈黙し、「慶喜の納地納官」は強引に決められてしまった。
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在京の会津・桑名藩はもとより、彦根・大垣・津藩などの藩士は、こうした一連の動きを薩長の陰謀だと怒り、二条城に集結した。現実に薩摩藩士と会津藩士の小競合いも起こっており、会津藩士佐川官兵衛の弟が死んでいる。
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十二月十日、「議定」となった徳川慶勝・松平慶永が「二条城」を訪れ、徳川慶喜の「納地納官」の「朝命」を持ってきた。城内は殺気立つが、慶喜はそれを制して、一応「拝受」した。官位の件はよいが、領地は今すぐ返答できる問題ではない。猶予が必要と答えたという。
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それを知った城内はますます激昂し、一触即発の事態となったため、慶喜は十二日、松平容保・松平定敬らを連れて「大阪城」へ向かった。
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「二条城」を守護するのは「一ツ橋」水戸藩であったが「参与」の西郷隆盛は城の葵紋を天皇・菊紋に取り替えを命じ、本丸・二の丸の庭なども井戸を除きすべて替えさせ、徳川の面影を絶った。しかし、慶喜はこのような一連の「朝命」「城の紋替え」などの挑発にもこらえていたが、そんな情況の中に「江戸」に於ける薩摩の横暴が伝わってくるのである。
徳川慶喜時事について上奏
十二月十八日、徳川慶喜は「時事」について大阪城から「上奏」を提出した。藩主の下阪に伴い会津・桑名藩士らには「天皇に政権を返上したのであって、薩長に返した覚えはない」の思いが次第に募り、薩長討つべしの声が強まっていった。また、各諸藩にもその思いはあったようである。
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この日十八日(1868年1月12日)新選組局長(若年寄)近藤勇は「伏見奉行所」に退き、守備していたが「二条城」の会議(まだ幕臣永井尚志らが在城していた)に出席後、伏見奉行所へ帰る途中「黒染」辺りで狙撃されている(拙著「新選組」参照)
薩摩藩の暴行
一方、長州藩は藩主父子の官位復権、「朝廷」への参職が決まり、待機していた藩士らが続々と京洛に出陣して集結していた。
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西郷隆盛は何としても徳川幕府の息の根を止めんと、あらゆる策謀をめぐらし慶喜への挑発を練っていた。腹臣の益満休之助、伊岸田尚平らを江戸に派遣し、三田の藩邸を拠点にして浪士らを集め、ゲリラ行為を江戸市中・江戸付近で起こさせている。「御用盗」と称して商家に押し入るなどの暴行を欲しいままにしていた。十二月二十三日、江戸市中取り締まりの任に当たっていた庄内藩の営所を襲うに至り、ついに幕府も堪忍袋が切れ、薩摩藩邸を砲撃する命を下したのである。
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