〈「ペリー艦隊」浦賀に現れる〉

会津戊辰戦争(壱-一)
〈会津藩「東蝦夷地」の防備と開拓を担う〉

〈「ペリー艦隊」浦賀に現れる〉

嘉永六年(1853年)六月三日(7月8日)、アメリカの「ペリー艦隊」が「浦賀沖」に来航し世情・政情は騒然となった。幕府は「長崎の出島」に回航させ、そこで接渉するよう要求するが、ペリー提督は頑なに拒否し、ついに「浦賀へ上陸」大統領の親書を手渡し、貿易を要求する。幕府は一年間の猶予を求め、ペリー提督は再来航を伝え、帰国する。

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この時、幕府は老中阿部正弘が中心であった。「開国の要求」を諸外国から迫られる事は以前からオランダ国から予告されていた。にもかかわらず、鎖国維持論が主流であったため、徒に時を費やしていたのである。ペリー提督は砲門を揃え、戦争を構えての威嚇する交渉であった。阿部老中は三奉行、海防掛らと協議するが結論が出ず、水戸藩主徳川斉昭にも意見を求めたが、斉昭も圧倒的な武力の差を目前にして、具体的な答えはできなかった。幕府は「開国」の回答は一年延ばして、大統領の親書は受理したのである。

 

ペリー艦隊

〈ペリー来航関連資料〉

〈ペリー銅像〉〈増上寺の公園〉

〈碑文〉

嘉永六年(1853年)および安政元年二月(1854年)に日本の開港のため、米国代表として江戸湾を訪れたペルリ提督の出生地であり、また当時は日本訪問の出港地である米国ロードアイランド州ニューポート市から親善のしるしに東京都に贈られたものである。

ペリー銅像

黒船来航異文化の衝撃

ペリー艦隊

黒船出現時の世界情勢

ペリー艦隊

ペリー上陸地点

ペリー上陸地点
ペリー艦隊
ペリー艦隊
ペリー艦隊
ペリー艦隊

ペリー提督一行 カキ好きだった?

ペリー艦隊
ペリー艦隊

〈浦賀・久里浜〉〈ペリー上陸する〉

来航から退去までの十日間、江戸市中は緊迫に包まれていたという。浦賀から奉行所や沿岸警備の諸藩からの早馬が駆け違い、今にもアメリカ軍艦が侵入し戦争が起こると恐怖が市民をとらえたという。市中は避難の車馬が往き交い、物価も高騰し、買い占めも起こり、また怖いもの見たさに浦賀まで繰り出した者も多かった。「佐久間象山」「吉田松陰」なども浦賀に姿を現し、松陰はアメリカへの密出国を試みたりしている。

 

浦賀

〈北米合衆国水師伯理上陸記念碑〉〈ペリー公園〉

老中阿部正弘は「江戸城溜間詰」の諸藩士に意見を求めた。会津藩士松平容保、彦根藩主井伊直弼らは「開国」の必要性を説いたという。相模・浦賀警備の会津藩は船を出して警護にあたったというが、船の大きさが余りにも違いすぎていたのである。この違いは諸藩も同じであった。

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幕府は頻繁に日本近海・沿岸に出没する外国船に対して「異国船打払令」を出していたが、このころは諸藩の中にも否定的な考えが広がっていたという。

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また、船の大きさはもとより、黒煙をはきながら航走する「蒸気船」をみるのは初めてのものが多数であったのである。

ペリー公園

〈ペリー提督胸像〉〈ペリー記念館〉

ペリー艦隊は十日間の滞留の末、来年の再来航を伝え「浦賀」を離れていった。幕府は、まずはひと安心と胸をなでおろしたが、翌年の来航に対して「国論」を統一しその対応を定めなければならなかった。

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六月二十二日、将軍家慶(いえよし)が病死する。幕府は一カ月間喪を秘して、その間対策を急いだ。

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訪れた日は丁度「休館日」であった。

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〈碑文〉(要約)

北米合衆国、水師提督拍理、上陸記念碑建設者たる米友協会の遺志を継ぎ、本日以降、本会に於いて該記念碑並に構内の維持管理に当ることとする

昭和十年(1935年)二月二日

ペリー提督胸像

 

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