佐川官兵衛の出陣と三国峠の戦い

〈会津藩勇将・佐川官兵衛、出陣する〉
松平容保は帰国に当たってフランス式軍事の訓練を藩士に命じていたが、藩士の帰国が始まるまで、江戸城和田倉門内の会津藩上屋敷に隣接する旧幕軍歩兵訓練所の馬場に於いて軍事調練を受けた佐川官兵衛は、会津若松城三の丸に隊士らの訓練を指導していたが、閏四月十六日(6月5日)三の丸に於いて越後への出陣命を受け、十九日明け六ッ(午前六時)三の丸に集結し五ッ時(午前八時)喇叭の合図に出陣し四ッ半(午前十一時)高久宿にて昼食とし直ちに出立し七ッ時(午後四時)過ぎ片門村に到着、宿陣する。
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閏四月二十日(6月10日)会津藩が白河城攻略した日に片門を出陣し下野尻やどに宿陣、翌二十一日早朝出陣し、戦闘の訓練などをしながら津川へ入り宿陣。すでに出陣し津川防備陣営の青龍三番士中組(木村慎吾隊長)同二番足軽組(諏訪武之助)らが滞陣しており、互いに激励し合い、酒を交わしながら語り合ったという。
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二十二日朝、佐川らは当初の命令を受けた水原陣屋の防備に出陣、阿賀野川を船で下り分円村で上陸し、午後五時頃水原陣屋に宿陣する。
〈水原陣屋跡〉
水原陣屋はすでに出陣して防備陣営している萱野権兵衛(陣営代官)が滞陣していた。
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佐川官兵衛らは、やがて三国峠が破られ小千谷の急を知り出陣していく。
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佐川隊より一日遅れで出陣命を受けた砲兵隊二番組分隊(隊長市岡守衛)は二十日若松城を出陣、片門、下野尻を経て二十二日津川に入り宿陣、ここで青龍三番士中組(木村慎吾隊長)と会う。さらに二十三日、船で阿賀野川を下り、分田村で上陸、出陣命の水原陣屋に着陣している。ここで佐川と出会った。この市岡の隊も今回も一日遅れて佐川隊の後を追うように小千谷へ出陣するようになる。
〈三国峠の戦い〉
旧幕府は預かり領として会津藩領となった魚沼群方面の小千谷、小出島に陣屋が会津藩管理となり総群奉行として町野源之助が一隊を率いて早くから小出島に滞陣していた。
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西軍東山道、北陸道の両鎮撫総督府が江戸を出陣し信州、上越に侵軍する。そんな動勢を掴んだ会津藩は藩境警備として現在の新潟・長野・群馬県の分嶺となっている三国峠への出陣を決め小出島陣屋の町野源之助は農兵も含め閏四月九日(5月30日)陣屋を出陣した。
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町野源之助は弟久吉(十七歳)も連れていたという。久吉は白虎隊服(黒羅妙)を着ていたというが、白虎隊に入っていたとすれば、それを率いる小隊長が少なくともいなくてはならなず久吉は軍制改革前から兄に付いてきたのであろう。
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浅貝村に入った町野は探索を出し関門を構築し守備する。しかし、西軍浸出の報なく、農繁期に当たるため、ひとまず農兵を返し目明し手付十人と陣屋役人で守備陣として宿陣する。
〈三国峠に布陣〉
閏四月十九日(6月9日)須川に西軍侵出の報を探索より聞き、町野源之助は直ちに農兵に再出陣を伝えると共に、六日市に宿陣する備組(後に第二遊撃隊となる)の井深宅右衛門(酒屋陣屋代官)隊に援護を求める使者を出し、この夜、浅貝を出陣し三国峠を目指した。
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峠の頂きより半町(五十メートル位か)先に在る権現社別当の家に進み、兵をとどめ町野は農兵の小隊長(大竹豊之助)と目明し(彦五郎)を連れ立って地形の情況把握する。権現社より半里(約2キロ)に至ると、街道の左右は絶壁の崩(岩盤)となり、守備するには要害の地と定め、帰陣する。
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翌二十日、援軍が到着し直ちに要害の地に胸壁を築き、砲一門を据えた。
閏四月二十日、援軍が到着し陣地の構築をする。下記の資料によれば、町野源之助は斥候隊を出したようだとある。大河内輝声家の記する所によれば「甘日早天」とある。夜明け頃である。二十一日の勘違いと思えるのだが・・・。しかし、二十一日の若松記の資料には斥候へ行くものの、銃撃戦については記されていない。
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※こんな話もあるという。—関村の豪農が訪れ戦雲迫る情況なので、上州に米二万俵を置いてあるので、三国峠を通って自分の村まで運びたいので、護衛をお願いしたい。運ばれたら半分の一万俵を兵糧と献納する―と願い出たとある。
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二十一日、会津藩は斥候隊(町野久吉、幸之助ら)が農民の教導で猿ヶ京付近まで進むと、敵兵を見かけ、急ぎ引き返し、道に巨木などを倒し塞ぐ陣地を作っている。この時の事が下記の資料となっているのだろうか。
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この日、井深隊の小隊長池上武助が十九人を率い大礮一門を持って来陣している。越後に於ける会津藩の戦いが始まろうとしている。
〈激戦を展開する〉
西軍北陸道鎮撫総督府が江戸を出立し、上越高田に上陸し、高田城に入ったのが閏四月十九日(6月19日)東山道から分離し、合流をめざした岩村精一郎の一隊が高田の手前の宿、新井に入って待機滞陣するのが、それより以前の閏四月七日(5月28日)、この隊が合流後、(1)海道軍(2)山道軍に分かれ侵軍したのは、早くても二十日であろう。この山道軍が攻撃したのだろうか。閏四月二十四日(6月14日)三国峠へ西軍が侵軍する。
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閏四月七日に新井宿に布陣した西軍岩村の一隊は、それより以前から信州に入り、諸藩の兵を越後へ出陣させたのだろうか。岩村は先鋒隊を出兵させ、飯山、高田に先攻させ、すでに恭順させていた事は察せられる。だから衝鋒隊が四月二十五、二十六日(5月17.18日)に飯山・高田に於いて裏切られる形で敗走している。
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西軍の復古記には、この三国峠の戦いを簡単に次のように記述している。”上野巡査使・原保太郎、豊永貫一郎が前橋・高崎・沼田・安中・佐野・伊勢崎・吉井・七日市の八藩を督し、賊兵を三国嶺に撃てこれを破り、逃げるを追って越後六日町駅に至る。とある。
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とすれば、岩村が新井宿に滞陣中、これらの藩兵を出陣させたのか、それとも後陣をこれらの出兵を行い、北陸道総督府と二手に分かれて侵軍する山道軍の一隊を出陣させたのだろうか。山道軍は高田・新井から出陣し松の山へ侵軍し、六日町方面から小出島・小千谷・へ侵軍、松の山から雪峠から小千谷への二手に分かれて侵軍している。とすると、三国峠へは復古記にあるように山道軍に合流(六日町で)する一隊なのか、岩村が先発させて大きく迂回させて侵軍させたのだろうか。
〈三国峠から撤退〉
一方、三国峠に守備する会津藩町野源之助隊、援軍の池上武助隊は西軍の激しい砲銃撃に屈せず、奮戦に次ぐ奮戦を展開した。
左右が絶壁の断崩に構築した胸壁から応戦するも四ツ頃(午前十時)次第に戦死者が続出し、町野隊長の弟は槍を振って突進し、敵中を突破し前橋藩隊長八木始の目前まで進むが銃弾を浴び戦死する。小桧山兼四郎、古川源次郎は白兵戦を展開し、ついに敵に包囲され自刃するなど、激戦を繰り広げたが多数に無勢、ついに峠の権現社まで引き上げた。
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そんな中に、小出島陣営から「使者=良蔵という」が来て、”この地破られば魚沼群領地はすべて敵地となる故、必死に守られたし„と伝えてきた。
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しかし、迂回した西軍の一隊が後方より銃撃、挟撃される事となり、ついに撤退し、浅貝を経て二居峠まで退いた。この間、止まって死守、また途中に陣地を構築して反撃との声もあったが、二居峠に退いた。しかし、西軍の一隊山道軍の一手がすでに六日町に侵攻との報に関村で魚沼川を渡河し、野営後、翌二十五日の夕刻小出島陣屋に入陣する。
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