佐久間象山・大村益次郎・河上彦斎

〈佐久間象山寓居跡〉
佐久間象山は信州松代藩の出で幕末期西洋科学に詳しく私塾を開いている。その見識と開国の必要性を唱え、幕府も幕臣として採用しようとする。元治元年(1864年)幕府が推し進める「公武合体」に協力する。そのため攘夷派から狙われ、同年七月十一日肥後藩脱藩士河上彦斎らに暗殺された。
佐久間象山の塾から勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬ら当時の傑出した士を輩出している。
暗殺した河上彦斎は当時(文久年間)京都に於ける「暗殺」で名を知られた薩摩藩田中新兵衛、土佐藩(勤王党=武市半平太)岡田以蔵らと「三人の刺客」として名を知られていたという。
佐久間象山・大村益次郎遭難の碑写真
1969年3月22日撮影

佐久間象山25歳差妻へ愛の文面
〈佐久間象山 大村益次郎 遭難之碑〉
佐久間象山は信州松代藩の出身、儒学や朱子学を修め、西洋学の導入で殖産興国をすすめた。彼の塾からは、勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬らを輩出。元治元年(1864)に上洛し、開国論を唱えて公武合体に努めたため、同年七月十一日刺客に斬殺された。
大村益次郎は長州藩出身。医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者となった。長州藩の軍事指導者として活躍。その功績から維新後兵部大輔に任命され近代兵制樹立に尽力。しかし廃刀論で士族の反感を買い、明治二年に三条木屋町にて反対派士族に襲われ同年敗血症で死去。
〈大村益次郎寓居跡(上)〉〈川上彦斎寓居跡(下)〉
大村益次郎は長州の漢方医の子として生まれ蘭方医を学び、更に大阪に於て当時有名であった緒方洪庵に学び頭角を表し、やがて桂小五郎を知り長州藩に取り立てられ、高杉晋作らとも知り合いとなり、長州藩の軍事の面に於て活躍し「戊辰戦争」の「上野の戦い」で総指揮官として腕を振るっている。
明治二年(1869年)新政府の兵部大輔に任じられ、夏京に向かい刺客に襲われるのである。
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〈参考文献〉「花神=全四巻」司馬遼太郎・新潮社
「大村益次郎」土橋治重著
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「アートスクエア」の店が「河上彦斎」が住んでいたといわれる住居跡。
過激な「攘夷派志士」として知られ肥後藩脱藩志士として暗殺する。
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下記の中の「三刺客伝」に河上彦斎が掲載されている
※参考文献「幕末動乱の男たち」(下)海音寺潮五郎著・新潮社1969年(昭44)3月20日第二刷
〈三条小橋=佐久間象山=大村益次郎 遭難の碑〉
京都木屋町通りに沿って流れる「高瀬川」に架かる三条小橋付近にて二人は暗殺されている。
〈高瀬川〉
〈説明文〉
「高瀬川一之船入」
川の西方の堀割を一之船入という。高瀬川は慶長十六年(1611)頃角倉了以が開いた運河でここを通行する高瀬舟の荷物のあげおろしをする船溜所を船入といった。角倉氏は保津峡の開発等数々の土木工事に成功しており京都の中心部に物資を運び入れるためこの川を開いたものでこの辺りを起点として鴨川の水をとり入れ鴨川に平行して十条まで南下しさらに鴨川を横断して伏見に通じていた。底が平たく舷側の高井高瀬舟が盛時には数十艘が上下しおおさかなどの物資を運び入れた。木屋町筋には「木屋町」という町名の由来となった材木屋をはじめ多くの問屋が立ち並んで賑わい船入はこの一之船入をはじめ数箇所に設けられた。明治以降(後)高瀬川は舟運の目的を失ったが、両岸に柳を植えた景観は京都の情緒の大きな要素となっている。一之船入はは江戸時代の交通運輸の貴重な遺跡として史跡に指定されている。

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