〈佐倉順天堂跡〉〈順天堂記念館〉

佐倉順天堂跡 順天堂記念館会津戊辰戦争(壱-一)

〈甚大寺=堀田正睦の墓〉

〈佐倉順天堂跡〉〈順天堂記念館〉

堀田正睦藩主は、蘭方医・佐藤泰然を招き、オランダ医学の塾兼病院を開設した。ここを源とした医学の流れが「順天堂大学」へとつながっていくのである。

順天堂

〈旧佐倉順天堂〉

順天堂は、長崎に遊学後、江戸に蘭医学塾を開いていた蘭医佐藤泰然が佐倉に移り住み、天保十四年(1843)に開いたオランダ医学の塾である。ここではオランダ医学書を基礎とした、当時としては最高水準の外科手術を中心とした実践的な医学教育と治療が行われ、その名声により幕末から明治にかけて全国各地から多くの塾生が参集した。泰然の養子佐藤尚中(たかなか)(山口舜海)は、長崎でオランダ軍医ポンぺに学んだ後、系統的な医学教育を取り入れ、ここで学んだ塾生の多くが明治医学界において活躍した。明治時代になると、佐藤尚中は新政府から大学東校(現東京大学医学部)の最高責任者として招かれた後、御茶ノ水に順天堂医院を開業した。一方佐倉の順天堂は養子佐藤舜海(岡本道庵)が受け継ぎ、佐倉順天堂として医療活動を続けた。現在、残っている建物は、安政五年(1858)に建てられたものと、その後拡充された施設の一部である。

平成五年(1993年)十二月二十日

順天堂2

〈宗円寺=佐藤泰然の墓〉

佐藤泰然(父は山形の人)は文化元年(1804年)に武蔵国川崎在稲毛(現川崎市)生まれ、天保元年(1829)高野長英(医学)に学び、天保六年から九年まで長崎で蘭方医学を学び、江戸で開業したが、天保十四年(1843)佐倉藩主堀田正睦の招きにより、佐倉本町に移り住み、私立病院の元祖である順天堂を開き、治療の傍ら、塾として多くの近代医学を担った医学生を育てると共に、藩主堀田正睦の顧問格として、外交問題の意見を聞かれるなど、藩政に与えた力は大きく、佐倉藩の洋学熱心と合まって「西の長崎、東の佐倉」とうたわれた時代であった。安政六年(1859)順天堂を養子佐藤尚中に譲り、横浜、東京と居を移し、明治五年(1872)東京下谷茅町において六十九歳で没した。

佐藤泰然の墓

〈佐藤泰然の碑と墓〉〈谷中墓地〉

佐藤泰然の墓2

藩主が残した大遺産

切り抜き

〈佐倉藩校跡〉〈佐倉高校・記念館〉

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〈鹿山文庫関連資料〉

佐倉藩校の流れをくむ県立佐倉高校が「鹿山文庫」として管理する典籍群の多くは、嘉永四年(1792)の藩校開設以来、佐倉藩が学究のため逐次求めてきたものである。特に蘭書をはじめとする洋書郡や、因州鳥取潘医稲村三伯が寛政八年(1796)に完成させた「ハルマ和解」は、日本の近代化に貢献した先人たちの苦労を物語るものである。

佐倉藩校

「大手門下」に在る「麻賀多(まかた)神社」神社前は「佐倉養成所跡」

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「麻賀多神社」付近の「武家屋敷」は、江戸後期の佐倉藩士の質素な暮らしぶりを偲ばせる武家屋敷が佇んでいる。通りに面した土手の上に生け垣をめぐらせて、馬上から屋敷内を覗かれないように工夫してある。堀田正睦藩主の藩政改革で身分によって衣服・飲食・居住・贈答など細かく規定されたという。

〈武家屋敷跡〉

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