〈江戸・薩摩邸焼き打ち事件〉

大阪城会津戊辰戦争(壱-三)

〈王政復古の大号令〉

〈江戸・薩摩邸焼き打ち事件〉

慶応三年十月中旬、薩摩藩西郷隆盛は、長州の桂小五郎らと「薩長同盟」を結び「大政奉還」をした徳川幕府をどうしても討幕したく、薩摩藩士益満休之助、浪人相楽総三、伊牟田尚平らを江戸に送り江戸府内、関東各地で騒乱を巻き起こし、徳川幕府への挑発を続けていた。薩摩藩に集まった浪人五百余人という。「御用盗」と称し、金品強奪、乱暴狼藉の数々を尽くしては当時、江戸市中を取り締まっていた「新徴組」(庄内藩お抱え)の屯所への発砲、江戸城二の丸への放火とその行動はエスカレートし、ついに十二月二十五日(1868年1月9日)幕府は新徴組や諸藩、幕府陸軍の兵を持って、浪人が必ず逃げ込む薩摩藩邸に掛け合い、浪人の引き渡しを要求するも拒否され薩摩藩邸へ攻撃を開始した。この一報が大阪城へ届いたのが十二月二十八日(1月21日)で、勿論、京の西郷にも届きそれを知った西郷は手を打って小躍りして喜んだという。討幕の切っかけができたからである。浪人は品川沖に停泊する薩摩藩の船で逃亡し、逆に庄内藩はこの後会津と共に朝敵の汚名を着せられることになる。

江戸薩摩藩邸焼き討ち事件

開戦までの経緯

〈徳川慶喜、上洛を決意〉

慶応三年十二月十二日(1868年1月6日)徳川慶喜は、松平容保、松平定敬らを従行させ、大阪城に向かった。

十二月十八日(1868年1月12日)には、大阪城から「時事」について朝廷へ「上奏」する。「辞官」については了承するも「納地」については、多くの家臣らが路頭に迷う恐れもあり、今しばらく猶予されたい—そんな内容である。

しかし、薩長は朝廷内に「公武合体派」が慶喜を「朝議」に加えようとほんそうしており、薩長はそれらの動きを制し何としても徳川慶喜を葬らなければ「安定」は得られないと、江戸市中、周辺に於いて強奪、略奪、放火等々の行為を浪士を使って徳川への挑発を始めていた。ついに江戸幕府は、薩摩藩との交渉が決裂すると藩屋敷を包囲し攻撃焼失させた。その知らせを聞いた薩摩・西郷隆盛は手を打って喜んだという。徳川慶喜への討幕の大義名分ができたという。一方、徳川慶喜は足元の江戸に於いて市中、市民に恐怖を与え、錯乱する薩摩藩に対して、ついに怒りを爆発させ上洛し、その非をはっきりさせんととして上洛を決する。

慶喜上洛を決意

慶喜上洛を決意

慶喜上洛を決意

軍を率いての上洛は本来慶喜は考えていなかった。十二月二十六日(1月9日)幕府老中であった越前藩主松平慶勝、尾張藩主松平慶永らは朝廷の一員として大阪城に入り徳川慶喜に官位を辞退し、納地削減を進言した。慶喜は「官位」は辞退しても、領地の削減はいま暫くと、その事情を自ら上洛し進言したいと返答している。その際、僅かな供物だけの上洛も了承していたのである。しかし、江戸に於ける薩摩の暴虐ぶりを十二月三十日(1月23日)江戸よりの知らせを聴き、軍を率いての上洛を決意したのである。慶喜は容保、定敬、幕閣らと評議、その手配を定めた。

慶喜上洛

〈大阪城〉

「薩摩藩弾劾」の上奏を提出すべく大阪城の幕府は、入洛した場合の京洛の警備の配置まで決め、大目付滝川播磨守を先鋒陣として出兵させた。慶応四年(1868年)一月二日(1月25日)の事であった。陸路からと淀川を船でめざす。淀城を本営として、鳥羽・伏見の二方面からの入京をめざした。

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※この大阪城の写真は、妻が以前(結婚前)夏休みを利用して訪ねた時のものである。

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大阪城

〈大阪城砲台跡〉

〈号砲〉

明治、大正年間「お城のドン」の名で市民に親しまれていた号砲。これは朝、昼、夕の三度、時報のために打ち鳴らされていたが、後には昼だけとなっていた。それも大正十一年(1922年)の軍備縮小の影響から冗費節約のためとあって中止されることとなった。

大阪城

慶応四年(1868年)一月二日(1月26日)大阪城を出立した旧幕軍、会津藩、桑名藩らが続々淀城に入る。入京は、鳥羽街道、竹田街道の二方面からと定めた。武装はしていたが、戦端が開けれるとは考えていなかった。

一月三日(1月27日)鳥羽街道を幕府軍主力、桑名藩、大垣藩、京都見廻組らが進んだ。会津藩主力は竹田街道を進み、伏見奉行所に守備する新選組と合流する。東本願寺別院にも多くの会津藩士が入った。

一方、西軍は京都九条の「東寺」と「東福寺」に本営を置き、鳥羽方面は「城南宮」に本陣を「秋山」「小枝橋」に布陣、主に薩摩藩であった。「城南宮」より「小枝橋」にかけて砲列をしき、幕府の入洛を阻止しようとしていた。また伏見方面は御香宮を長州藩中心に配備していた。

〈鳥羽・伏見の戦い一日目〉

慶喜上洛

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