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〈薩摩藩の「寺田屋騒動」〉

薩摩藩の寺田屋騒動会津戊辰戦争(壱-一)
〈「坂下門外の変」起こる〉

〈薩摩藩の「寺田屋騒動」〉

 

「文久」に入ると京洛に多くの「尊王」派士、脱藩士などが入り、討幕を考える者もあったという。

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「土佐勤皇党」(武市半平太)「精忠組」(有馬新七)らはその代表的な一団であった。朝廷の学習院に出入りし政権に疎い公卿らを利用し「攘夷」を叫び画策していた。土佐勤皇党は岡田以蔵らを使って暗殺も行っている。

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文久二年(1862年)三月、薩摩藩主島津久光は、一千名の藩士を率いて上洛し「幕政改革」に関する意見書を朝廷に提出し、孝明天皇に拝謁「三時策」を天皇から下賜され、江戸城に赴むく事となった。

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薩摩藩の精忠組は藩主の上洛を知り「討幕の挙兵」と期待し、大阪より舟で伏見に入った。しかし、藩主は「公武合体」の推進のための「上洛」と知り、上洛し討幕の狼火を上げようと決意し、京へ向かんとする所に、藩主の意を受けた藩士らが訪れ「決起」を「軽挙な暴発は止めよ」と説得するも成らず「藩命」と言っても説き伏せる事がかなわず、ついに藩士同士の「斬り合い」となった。文久二年四月二十三日の事であった。

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即死七名、重軽傷者を出した悲劇が起こったのである。後にこれを「寺田屋騒動(事件)」と呼ばれた。

寺田屋騒動

流血の維新前夜

維新前夜2
維新前夜3
維新前夜4

 

〈伏見「大黒寺」〉〈薩摩藩士の墓〉

*京都より歩いて竹田街道を進んでいると偶然に見つけて撮ったものである。

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この夜は「寺田屋」に泊まり「坂本龍馬」が宿泊したという部屋に寝泊できた。

〈生麦事件起きる〉

1969年3月22日撮影

薩摩藩士の墓

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