会津藩と新発田藩の関係

新発田藩主と西郷頼母会津戊辰戦争(弐-三)

会津藩松平容保、武備恭順と軍制改革へ

 

会津藩と新発田藩の関係

 

新発田藩の前藩主と西郷頼母家老、激論を交わす

二月十四日、新発田藩主溝口直正が帰国途中、若松城下に宿泊した折、家老萱野権兵衛は会津藩士武田五郎らを護衛として新発田藩城下まで同行させ新発田城下にそのまま滞留させた。この頃新発田藩は西軍側についているとの噂がしきりに流布していた。会津藩士の中にも懐疑的に思っている者も多かったのである。武田五郎らの滞留は新発田藩にとっては片腹痛いものであった。

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そんな情況の中、帰国の道になっているため前藩主溝口直溥が会津城下を通過するため入ってきたのである。三月十五日(4月7日)の事である。鳥羽伏見の戦いにも出兵させず、また薩摩・長州藩士を潜伏させているとの風聞に戦いに敗れて江戸を去らされた会津藩にとっては京都に於ける新発田藩の行動に対して、その疑念、不満が積もり積もっていたのか、会津藩家老西郷頼母、若年寄西郷勇左衛門は、若松城下に宿泊している宿を訪ね二日間に亘って激論をたたかわした。

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「奥羽越列藩同盟」に加盟する新発田藩であったが、同盟軍としての出兵要請にも中々こたえず、ついには西軍に寝返りするのであるが、まだ先の話である。

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三月十九日(4月10日)新発田前藩主溝口直溥は会津藩西郷勇左衛門、朱雀二番寄合組土屋総蔵らの二小隊の護衛の下、二十二日に帰城した。しかし、土屋らは帰国せず、城下近くの「五十公野」に滞留し、さらに城下の「長徳寺」に転陣したため、騒動となるが、西軍の侵軍が「越後/小千谷」に切迫との報に土屋らは出陣し事は納まった。

新発田藩主と西郷頼母

一方、この頃(三月十六日=4月8日)水戸藩家老市川三左衛門、朝比奈太郎、佐藤図書、筧助太夫ら約六百五十人が、水戸を脱走し「白河口」周辺の長沼(現石岡市の府中藩の陣屋がある)に現れたのである。

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「水戸天狗党」を討伐し藩政を牛耳ってきた諸生党(市川・朝比奈ら)は、大政奉還以降、情勢が代わり天狗党派が朝廷から勅書を賜わり市川らを討伐せんと京都-江戸へと進み、いよいよ水戸城へ迫らんとする三月九日(4月1日)の夜、戦いを避けて会津を目指してきたのである。

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しかし、会津藩は「武備恭順」するものの、朝廷にも「謝罪・恭順」の嘆願書を提出(返答はなかったという)している立場上、他藩の応援を受諾できなかった。一方、諸生党討伐に出陣した水戸藩一千三百余人が三月二十五日(4月17日)白河に宿陣する。

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会津藩は諸生党が若松めざして進んできたが、途中で(福良か三代辺り)面談し「城下通行」を避けさせ、来援のお礼に感謝を述べ現状を訴え猪苗代街道から塩川、坂下と教導し「越後口」へ向かわせた。その後に討伐隊が使者を若松城下につかわすが、面談し城下に諸生党が滞在していない旨を伝えている。(この辺りの話は「会津戊辰戦争(参)」「幕末水戸天狗党」に詳述)

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なお、旧幕・衛蜂隊も三月二十二日(4月14日)に隊長古屋佐久衛門が若松城下に入り、松平容保・喜徳に拝謁し日新館に宿陣し翌日「興徳寺」に戦死した隊士の「追善供養祭」を行い、若松城下を二十六日に出陣している。(※同上参照)

水戸藩諸生党

〈長徳寺〉

朱雀二番寄合組隊長土屋総蔵は新発田城下の長徳寺に滞陣を続けた。その滞陣は新発田藩軍事方の怒りをかい国交断絶の献策も出る騒ぎとなった。前藩主の警護で新発田城下に入ったのはいいが、酒屋陣屋への防備出張が土屋らの建て前であったからであった。長期に滞陣となると新発田藩の監視に映ったのである。

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新発田藩(十万石)は元々勤王色の強い藩であった。西軍に協調する姿勢が多々あったのである。しかし、小千谷方面が切迫情勢となり、土屋隊は新潟港へ出陣となりこの新発田藩の動勢は納まった。

会津藩士の軍事訓練と武器商人スネル

土屋総藏

 

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