司馬遼太郎「峠」の文学碑

峠の碑表面の文会津戊辰戦争(参-二)

北越戊辰戦争・朝日山攻防戦2

司馬遼太郎「峠」の文学碑

 

〈越の大橋〉

信濃川が、小千谷市から長岡市に入ったところに、越の大橋がかかっている。橋の西詰めが小千谷市で、東詰は長岡市である。上流側の小公園に平成五年河井継之助を描いた司馬遼太郎の小説「峠」の文学碑が建てられ、表面に小説の一節が浮き彫りにされている。

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中央の樹木が繁る所が越の大橋。脇に建つ司馬遼太郎「峠」の文学碑。

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峠 司馬遼太郎
主力は十日町を発し、六日市、妙見を経て榎峠の坂をのぼった。坂の右手は、大地が信濃川へ落ち込んでいる。川をへだてて対岸に三仏生村がある。そこには薩長の兵が駐屯している。その兵が山腹をのぼる長岡兵をめざとくみつけ砲弾を飛ばしてきた。この川越えの砲弾がこの方面の戦争の第一弾になった。

2003年10月28日撮影
越の大橋

峠碑表面の文

〈峠の碑=裏面〉

〈碑文〉
「峠」のこと
江戸封建制は、世界史の同じ制度の中でも、きわだって精巧なものだった。十七世紀から二百七十年、日本史はこの制度のもとにあって、学問や芸術、商工業、農業を発達させた。この島国のひとびとのすべての才能と心ががここで養われたのである。その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。かれは藩を幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。継之助は独自の近代化の発想と実行者という点で、きわどいほどに先覚的だった。ただ、こまったことは時代のほうが急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手になり西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。その勢力が小千谷まできた。かれらは時の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひたすら屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。継之助は小千谷本営に出むき猶予を請うたが容られなかった。といって屈従は倫理として出来ることではなかった。となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うという美的表現をとらざるをえなかったのである。かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることのみに終始した。武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。

平成五年(1993年)十一月 司馬遼太郎

村松藩への出兵要請、西軍長岡城攻略へ

峠の碑裏面

峠の碑裏面

司馬遼太郎『峠』

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