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北越戊辰戦争西軍信濃川を渡河

西軍上陸の地会津戊辰戦争(参-二)

村松藩への出兵要請、西軍長岡城攻略へ

北越戊辰戦争西軍信濃川を渡河

 

〈長岡城下への砲撃続く〉

朝日山・榎峠に砲撃が続く連日、西軍は信濃川の対岸に侵攻し、昨日の草生津の本妙寺を目印としての砲撃弾に続いて十七日(7月6日)は、城北方面の横下村の対岸より砲撃してきた。(長岡藩戦争記には槇下村よりとあるが、現在の槇下村は信濃川の東側にあり、川を渡河しなければならず、間違いと思われる。)

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破裂弾は着弾するとあちこちに飛び散るもので(火災を起こし、人、家にも被害を与える)市民は初めてその砲撃に驚き狼狽し、遠く山間に避難する騒ぎとなった。

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守備する長岡藩は少ないが、会津藩の援けを受けながら必死の反撃をする。しかし、その数はかなりの差が生じていた。連日の市街地の砲撃は激しいものであったという。西軍は渡河の準備をし始めたという。

長岡城下への砲撃

五月十八日(7月7日)西軍は前日に増して激しい砲撃を開始した。蔵王の本堂(現安禅寺か極楽寺と考えられる)を目標に猛烈な砲撃である。長岡藩は会津藩本営に援軍を求めた。摂田屋本営から出張していた会津藩総督一瀬は直ちに出陣させ、燃え上がる本堂の消火と反撃を開始する。この時、村松城下より帰陣する河井継之助と出会い、援軍の要請をしている。

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一方、西軍は昨日渡河の準備を終え、この日の午後渡河を開始、中洲まで進軍させ同盟軍の情勢と川の様子を探ったが、長岡藩の中州への激しい銃撃にすぐに引き返した。しかし、川の情況を十分把握したようである。さらに市民の中に同盟軍の陣営の様子、川の地理・地形を知る者が西軍に知らせていたという。

林忠蔵軍務調書

〈西軍信濃川を渡河〉(西軍上陸の地)

五月十九日(7月8日)西軍(海道軍)は、未明頃より関原村より進軍し、信濃川沿いの寺島から大島にかけて砲陣をしき砲撃を開始した。その砲撃は凄まじいものであった。同盟軍の守備陣容を確認する意味合いもあったという。その一方で下流の渡河の場を探し、小舟を流して反撃の有無を確認し、まず薩摩藩が渡河を開始した。

長岡城失陥戦闘要図

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中央の木の下に小さな墓(二基)が戦死者の墓。
2003年10月29日撮影

西軍上陸の地

〈西軍上陸の地・明治戊辰戦蹟顕彰碑〉

正面の小さな墓(木の下に建つ)は右側に慶応四年討死
忠金□援□居士 五月十九日
左側に長岡藩と上に刻まれその下に四人の名があるが判読は難しかった。

西軍上陸の地

長岡藩軍事総督河井継之助はこの方面の守備陣容は手薄なのは知っていた。そのため摂田屋の本営(光福寺)に於いて軍議を開き(長岡=河井、川島、会津=佐川、桑名=山脇)、決戦の決意をした。前島神社辺りから信濃川を渡り西軍の背後から三仏生の砲陣を撃破し小千谷の本営を一気に叩く作戦を二十日早朝から行う予定であったが、一日早い西軍の渡河攻撃に合ってしまった。

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西軍は対岸の蔵王(会津藩本営)草生津の砲台に激しい攻撃を始め、中島(上陸地)辺りの砲撃は渡河を開始すると少し緩め、他の二か所へ猛砲撃を敢行した。

明治戊辰戦蹟顕彰碑

北越戊辰戦争・西軍上陸の地

〈明治戊辰之役 東西両軍戦死者之墓〉(西軍上陸の地)

激しい砲撃をしながら中州のある辺りの信濃川をまず長州藩奇兵隊が露を利用し渡河を開始、そのすぐ下流を薩摩藩が渡河、その後を高田藩、加賀藩の諸隊が続々と渡河を始めた。

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一方、同盟軍は長岡、会津藩が砲撃への反撃を展開していく。西軍の渡河には気づかなかったようである。また、この方面の長岡藩守備陣は主力以外の老幼の藩士が多かった。会津藩もまた主力は朝日山方面に出陣し、長岡藩と合わせて四百人の守備陣がそれも数か所に分散して信濃川堤防に布陣していたのである。

明治戊辰之役東西両軍戦死者の墓

明治戊辰之役東西両軍戦死者の墓

北越戊辰戦争・西軍上陸の地

必死の渡河をした西軍は直ちに銃撃しながら長岡藩の陣屋に突入した。突如の攻撃にも長岡藩士毛利幾右衛門らは奮戦するが、半小隊(約十五~二十人)では支えきれず散乱して敗走となった。残る半小隊は銃声に駆けつけるが圧倒的な西軍勢である。激しい銃撃にやむなく退却となった。

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上陸した西軍は僅かな守備陣の長岡藩の塁を攻略すると二手に分かれて市街地へ侵入し中島村に火を放ち銃撃しながら長岡藩・中島兵学所をめがけて突進した。守る長岡藩は十五歳から十八歳の少年兵であった。西軍が雪崩の如く猛射しながら迫った。少年兵は支え切れず兵舎に火を放って退いた。

資料=会津戊辰戦争写真集
会津戊辰戦争写真集

散々往々に分かれてしまった長岡藩兵は城に駆け戻った者、また渡里村に於いて必死に防戦するが、西軍の侵攻は早く柿川に架かる橋を落とそうとするが、堤の胸壁守備陣も攻略され、退却するしかなかった。この時安善寺に布陣していた村松藩は弾丸が寺に達すると敵襲来とばかり、よく確認もせず、長岡藩の裡面(りめん)より発砲してしまった。長岡藩士は村松藩の寝返りと思ってしまう。

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一方、蔵王に守備する長岡・会津陣営は対岸おりの砲撃に応戦していたが、薩摩藩らの渡河を知り応戦する。しかし、こちらも多勢に無勢である。白兵戦も所々で展開するガ、ついに城めざして退却する。

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同盟軍が守備する草生津、六日市方面も西軍上陸を知ると急ぎ城下をめざし、城下の郭門口を守備するが、西軍の攻撃は烈しいものであった。

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城岡の土塁を守備していた長岡藩士大砲隊長伊東道右衛門(槍の達人=六十二歳)は配下の隊士を城下・神田町と新町方面に退却させ、一人踏みとどまって迫りくる西軍に名のりをあげ、槍を振るって二人を倒し(刺殺)たが、銃弾を浴び戦死した。

北越戊辰戦争長岡城落城

西軍上陸

長岡市郷土史料館パンフレット

長岡市郷土資料館

長岡市郷土史料館

 

 

 

 

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