新撰組誕生 八・一八の政変 禁門の政変

〈「新選組」誕生への道のり〉
〈壬生・八木亭〉
江戸で将軍上洛への警護として「徴募」された「浪士組」は、江戸へ帰府となったがその時京都に残留し、当初の「将軍警護」に尽したいと近藤勇らは守護職松平容保に嘆願し認められた。京都守護職松平容保預かりとなった「壬生浪士組」の誕生である。
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近藤勇らは「松平容保預り」となると、隊士の募集を開始し、一方京都市中の取り締まりに取り組んでいく。
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文久三年八月十三日に天皇の「攘夷祈願」のため「大和行幸」が決定し「親征」の軍議を定め、伊勢神宮にも行幸と発表された。しかし、こうまで過激公卿・浪士らが牛耳る「朝廷」に対して不安を抱く公卿や諸侯も出始める。土佐藩主山内容堂は「公武合体」の実を上げるべく藩論を統一し会津藩と提携する動きを見せはじめる。一方、「御所の御門」の守備を解任された薩摩藩も一方的に「勅命」を出す朝廷の陰の長州藩に対して懐疑的になってきており、会津藩に藩の「密命」を持って使者を派遣してきたのである。
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「幕府・浪士組」として入京した近藤勇らは元水戸藩士芹沢鴨らとこの「八木源之丞邸」を宿舎とした。
〈「8.18の政変」起きる〉
近藤勇らは隊士が増え始めると八木邸から前の「前川邸」に「屯所」を移し「会津藩松平容保預浪士組」の標札を掲げたという。
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薩摩藩士高崎左太郎が会津藩士公用人の秋月悌次郎が宿舎として市内に設けた家へ訪ねたのは「天皇の大和行幸」と決定された八月十三日であった。次々と下される「勅書」は「偽勅」であり、天皇もこのことに気づき「中川宮」と相談するも『兵力を持った武臣が側近にいないため、どうしようもない』と嘆いている。『薩摩と会津がその任に当たり、ともに奸臣を除いて天皇を安心させたい』との申し入れであった。
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ここに会津と薩摩の提携がなり、中川宮尊融法(そんゆう)親王(39歳)にその旨相談、長州過激派、過激派公卿らに漏れないよう事は進めなければならなかった。ようやく他の公卿の説得がなり、中川宮が「九州巡撫使」の辞退する旨を天皇に申し出るという形をとり、天皇に説くが仲々天皇の「勅許」が降りなかったが、八月十七日の夜、苦慮した天皇の決断が下りたのである。
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会津藩は毎年八月に京都滞住の藩士の交代期であった。八日に新しい一陣が交代に京都に付き、十一日に帰藩する一陣が出発する。直ちにその一陣を呼び戻し、約二千人の精兵の藩士が京に滞住していたのである。
〈下立売門〉〈禁門の政変〉
五月二十日に姉小路が殺害されたが、もう一方の攘夷派急先鋒の三条実美は増々この説を強め天皇の上位祈願の行事を企て幕府の施政を批判していった。あまりの強行な策に公卿の中にも諸藩主の中にもその強引さに批判的姿勢が出始めたのである。土佐藩主・山内容堂は下許武兵衛・生駒清次らに会津藩士広沢富次郎(後、安任)を訪ねさせ「公武合体」の推進を伝え、土佐勤皇党の武市半平太、平井収二郎の逮捕を決意している。
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一方、薩摩藩は急進派公卿をあおる長州藩に疑問を持ちはじめ八月十三日(9月25日)高崎左太郎が会津藩士秋月悌二朗を訪ね(三本木の寓居=料亭・遊郭が多い所)「最近の朝廷から出る叡旨(えいし)は多くは偽勅で、奸臣らから出されているものである。天皇もこのことは気付き始め、中川宮に相談するも、三条実美、長州藩士・浪士らが有無をいわさず取り合ってくれないと言っている。会津と薩摩がこれらの奸臣を除くほかはない」と言ってきたのである。この報告に松平容保も同意する。秋月と高崎は中川宮を訪ね胸中を語り協力の約束を得る。親幕派の公卿の同意を求めて近衛家は薩摩藩、二条家には会津藩が当たり同意を得たのである。
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八月十六日(9月28日)中川宮は単独で参内し天皇に勅許を求めるが、この日は出なかった。しかし、天皇の決断が十七日(29日)の夜下った。中川宮、近衛前関白、同左大将、二条右大臣、徳大寺内大臣らに非常に大義のため至急参内せよと天皇の通達が届いた。更に松平容保守護職・所司代は藩兵を率いて十八日(30日)の子の刻(午前零時)に参内し、薩摩藩にも伝えとの通達があった。また、因幡・備前・米沢・土佐藩兵も参内してきた。越前藩も加わった。
〈堺町門〉(上)〈仙洞御所跡〉
中川宮は「勅」を宣べ三条実美らの参内を禁じ禁裏の門を先の藩に守らせた。
午後になってから鷹司関白が呼ばれ参内する。三条実美らの攘夷派の公卿の弁解と長州藩の弁解をするが聞き入れられなかった。
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堺町門守衛の長州藩は門外で所司代の兵が守る門内と対峙し攘夷派浪士も長州藩と共にいた。双方、共に大砲や銃砲隊まで配備しての対峙である。
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この時、会津藩は国元から交代で率いる一千名の藩兵が八月十一日(9月23日)帰国に向かうが洛中の浪士の横暴が続き放火も起きその治安維持を名目に引き戻しており藩兵二千名が禁裏の守衛に当たっていた。ついに「勅命に背けば朝敵になる」と、長州藩総大将の家老益田右衛門介は退却を決断する。
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この時「新選組」にも出動命令が下り、近藤・芹沢らも「蛤御門」から「お花畑」「仙洞所」を守衛したという。「蛤御門の変」以降、御所を守衛する「兵舎」が建てられ、松平容保も公用が遅い時は宿泊したと伝わる。
三条実美ら攘夷派公卿は鷹司邸に残っていたが、勅命により退いた。長州藩兵、三条、浪士は妙法院に集結し評議する。午後になって雨になる。直ちに御所に逆寄して君側の奸を払うべし、また河内の金剛山に篭り天下の義徒を集め幕府を討つべしとの論も出るが、三条の親兵を解散し、長州へ戻ることに決した。「七卿落ち」はこの時である。三条実美、三條西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉である。他にも妙法院に集まった公卿らは御所に戻り詫び、許しを得たものもあった。この時、肥後の宮部鼎蔵ら浪士は京の富豪を回り三千両の金を集め旅費にしたという。
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八月二十六日(10月8日)天皇は、次の「詔勅」を発した。これまでの勅命に真偽の不明の儀これあり候えども、去る十八日以来出て候儀は、真実の朕の存意に候間、この辺諸藩一同にも心得違いあるべからず
「公武合体」への進路へとなっていく。
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「松平容保預・壬生浪士組」は、この時の働きによって、朝廷・武家伝奏の野宮定功と飛鳥井雅典の両卿から「新選組」と「命名」された。近藤勇らのその感激は計り知れないものであったろう。
妙法院山門
「八・一八の政変」で堺町門から長州勢が退いた「妙法院」の山門。
ここで評議し、帰藩を決したという。
〈禁裏南門〉〈健礼門〉
孝明天皇は守護職就任以来、誠心公武合体に尽し、朝廷に尽し、それに「八・一八の政変」による容保の功に対し、秘かに参内させ「宸翰」「御製」を下賜された。容保にとって生涯の感銘であったろう。
生涯、竹の筒に入れ肌身離さず所持したという。
「南門」は御所の正門にあたる。「禁門の政変」時、仙洞御所前で警備していた新選組が夜はこの門を守ったと伝わる。また「蛤御門の変」の時は、尾張徳川家に仕えた渡辺半蔵飛騨守が尾張藩兵を率いて守備したという。

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