会津藩士の軍事訓練と武器商人スネル
〈藩士の子弟、城内に召集される〉
三月に入って「藩境警備」が強化され、軍制改革によって新たに編成され直された隊が、それぞれ各方面に出陣している。三月二十日(4月12日)朱雀四番寄合組中隊長に木本内蔵之丞が任命された。さらに藩士の子弟百四十余人が城内大書院に招かれ、それぞれ諸隊に配属された。この日招集された子弟は木本の隊に配属されたものと思われる。
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三月十日(4月2日)軍制改革により、年齢別に分けて諸隊に編成されたが、すべてが藩士の配属が定まったわけではないようだ。すでに配属も決まり出陣している諸隊も多かったようだが、重臣による評議が連日続けられ、諸隊が決めっていったと考えられる。諸隊の交代もあったようである。
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「本丸」忍者落としの石垣といわれる勾配の急な造りである。「二の丸」と結ぶ「廊下橋」から望む。城で一番高い石垣。
本丸・高石垣 2002年8月10日撮影
〈山川大蔵「若年寄」になる〉
松平容保は西軍が「会津追討」のために「奥羽鎮撫総督府」を仙台藩に船で入った事を知ったのであろう。「恭順・謹慎」の意も朝廷に届かず、ただ西軍の侵入を待つ事は藩論も含め容認できなかったと思われる。「武備恭順」に決したけれど恭順の心はなくさず、その活動も仙台、米沢藩へ「嘆願書」と共に半紙を派遣している。一方、多くの藩士を藩境へ出陣させ、また城内の閣僚にも若手の起用も断行した。朱雀三番士中組の中隊長・原田対馬、砲兵隊一番隊長山川大蔵を参政(家老)に任命し、出陣先から呼ぼ戻すことにした。この頃は人事の入れ替えや秀れた若き青年を抜擢する「人事の改革」も行ったのである。
二の丸の濠 2002年8月10日撮影
〈フランス式訓練始まる〉
松平容保は帰国前に砲兵隊に三月三日(3月26日)藩士の帰国まで江戸に滞在し「フランス式軍事訓練」を命じていたが、一方、旧幕軍の「教官派遣」を幕府に願い出て許可され、旧幕陸軍歩兵頭(差図役)畠山五郎七郎、砲兵差図役布施七郎、騎兵差図役梅津金弥の三人が「軍制改革」頃、若松城下に到着していた。さらに三月七日(三日ともいう)=(3月30日)会津藩家老西郷頼母が招いたともいわれる旧幕伝習隊歩兵第二隊長(歩兵頭)沼間慎次郎(旗本)は「須藤時一郎」(旗本)と配下二十余名と共に江戸を脱し、三月十七日若松城下に到着し、すでに若松にいた畠山らと会津藩士の訓練を開始していた。
三の丸跡 2002年8月10日撮影
〈三の丸跡=県立博物館〉
三月十二日(4月4日)会津藩砲兵隊が帰国すると、浅岡内記、一柳房次郎、大戸留次郎、柴五三郎、根津大郎、太田原惣次郎らも加わり、藩士の長沼流から脱皮を図った。
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特に十五、六歳の白虎隊の訓練は厳しかったと伝わる。
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旧幕臣沼間慎次郎らは「円寿寺(延寿寺)」を宿所としたという。しかし、沼間の訓練はあまりにも厳しく、不満が噴き出し、長州藩の間謀との噂も出る程となり、沼間教官は外される。沼間は閏四月に旧幕軍が会津西街道を北上してくると聞くと、その参加のため、若松を出立し田島で合流し、会津と共に日光口方面で戦いを展開していく。(会津戊辰戦争(七)を参照)
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一方、若松城では、藩境防備の出陣が相次ぎ、農兵を募ったり、軍事訓練、武器の購入など武備が強化されていった。
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そして、西軍の「奥羽鎮撫隊」が三月二十三日(4月15日)仙台城下に入り会津追討の悲劇が次第に現実へと動き出し、米沢藩、仙台藩の「会津救解」の動きへとなっていくのである。
〈会津藩、ライフル七百八十挺購入する〉
三月二十三日(4月15日)会津藩は新潟に於いてオランダ商人スネルからライフル(小銃)七百八十挺を購入した。
スネル邸跡 2008年5月3日撮影
〈スネル邸跡〉
現在のスネル邸跡は自然植物鑑賞庭園となっていた。
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〈主人の話〉
当時の住宅のままでは生活上大変困難なため、また腐朽もすすみ、当時の姿を残しながらリフォームしたという。現在、住む家は裏に造築されたという。「戦争は勝たなければ駄目です」の言葉には随分と深い重いものがあった。戊辰後の会津藩の会津藩士の歴史がそれを物語っている。
2008年5月3日撮影
会津藩がスネル兄(ヘンリイ)弟(エドワード)を知ったのは、近代的武器購入に際して家老梶原平馬が横浜に赴く時、長岡藩家老河井継之助を通じて知った。
鳥羽伏見の戦いから刀や槍の戦いではなくなった事を身をもって体験した会津藩は、松平容保の指示の下、最新式銃の購入に踏み切ったのである。
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二月十六日(3月9日)松平容保が会津に帰国した。梶原は横浜でスネル弟と面談、小銃八百挺、付属の諸具、弾薬、器械等々を購入する。この後もスネルから購入していく。
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梶原平馬はスネル(ヘンリイ)に会津藩の軍事顧問を依頼、承諾を得る。名を「平松武兵衛(武平)」と改め会津城下に居住する。弟は新潟「勝楽寺」に事務所を置き、軍需品の商売を開始。やがて奥羽越諸藩の武器購入、輸送を担っていく。
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平松武平と名乗ったヘンリイは日本人の妻と共に城下の家に居住したという。その子の子守に「おけい」がなったという。
会津藩は長きに亘り、海防策による出費、京都守護職による多大な出費により、財政は逼迫しており、最新洋式の銃器は高価で数多く購入できず、旧式のものが旧式のものが多かったという。
スネル兄弟
資料=会津若松市史近世四
スネルの子守娘おけいの墓 背炙山=東山
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