徳川家茂将軍「上洛」する

〈油小路通り〉
松平容保は「公武合体」の実を上げるには「将軍の上洛」が必要と訴え、二百数十年ぶりに決定され、その護衛に「浪士組」が結成され、将軍より先に京都に入ったが「清河八郎」の画策により「天皇の近衛兵」的な集団となったため急処に帰えることになり、残留した近藤勇らが、やがて「新選組」を結成していく。
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一方、薩摩藩は藩主島津忠義(茂久)の「後見」として君臨する島津久光が「公武合体」であったが「幕政改革」を要求したりしていたが、それらの行動に朝廷には人気があったが「姉小路」暗殺が薩摩藩士田中新兵衛との噂からその人気が落ち「御所=禁裏」の「乾門」の警備を解かれ、御所に入る事も禁止されてしまったのである。
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そんな政情の中、長州藩は御門の(御所)最も重要な正門・堺町門となり、その権勢は大変な勢いであった。会津藩は京都守護職として御所の門の警備を申し出ていたが仲々許可されなかったが「姉小路暗殺」後、その許可が降りた。
幕末・明治暗殺地図
〈将軍「上洛」する〉
〈「浪士組」清河八郎らが宿泊跡〉〈新徳寺〉
松平容保が「入洛」したのが文久二年(1862年)十二月二十四日「将軍後見職」と成っていた「一橋慶喜」が翌三年一月五日である。東本願寺の「枳殻邸(きこく)」で宿泊する。徳川将軍(家茂)は三月四日入洛した。この「将軍上洛」に当たり、幕府では江戸内に於ても過激な浪士らと共に横暴する浪人対策として将軍上洛の警護に「徴募」し「浪士組」を結成し、将軍より先に京都に入らせ治安の安定を目指した。この浪士組が京都に入ったのは文久三年二月二十三日(1863年4月10日)であった。しかし前述したようにわずかな期間で三月十三日(4月30日)江戸へ帰る事になってしまう。
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一方幕府は「上洛」の警護に幕臣はもとより「八王子千人同心組」等々も率いていた。
八王子千人同心の歴史
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この時、水戸藩も将軍警護として随行しているが「水戸天狗党」となる藤田小四郎らもその一員として同行し長州藩士らと京に於いて交流、さらに長州藩士らと「盟約」を秘かに交わすなどしている。
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「浪士組」を陰で操った出羽浪士「清河八郎」が宿舎とした「新徳寺」。この本堂に「浪士」を集め「大演説」したといわれる。
2004年4月29日撮影
浪士組清川八郎らが宿泊跡=新徳寺
二条城の門
文久三年(1863年)三月四日(4月21日)「上洛」した徳川家茂将軍は「二条城」に入った。「上洛」した将軍を待っていたのは「朝廷」の主導権を握っている「攘夷派」の三条実美、姉小路公知らから「攘夷決行」を迫るものであった。そのため「天皇」行事の同行など次々と「勅書(命)」が下された。
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「攘夷」は当時の見識者の間では「無謀」な行為であり、武力的にも不可能な事と知られていたが、公卿を操る長州藩過激派と結託している三条実美らは矢継ぎ早に「攘夷祈願」を下し強引に幕府に「攘夷決行」の期日を求め五月十日と定めたのである。
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その五月十日、長州藩は下関海峡を通航する外国商船を砲撃した。(この仕返しが外国の連合艦船に手痛い反撃を受けている)
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五月二十日、姉小路公知が暗殺され、六月には「正親町公董(おおぎまち・きみくに)」公が長州に派遣され、さらに「中川宮」が「九州巡撫使」として派遣が決定していた。
〈「八王子千人同心」宿舎跡〉
将軍上洛警護として随行してきた「八王子千人同心」は、将軍在京中、また大阪へ出張時にはその警護に当ったといわれる。
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「将軍上洛」中には諸々の「事」があるが「会津戊辰戦争」が主題である。そのため「史跡」めぐりも「会津藩」中心である。
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二百三十年ぶりの将軍上洛(三代家光以来)も「公武合体」政策も仲々実を結ばずに時がすぎている。
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