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信州鎮撫隊会津へ、衝鋒隊と改称し越後へ出立

興徳寺会津戊辰戦争(参-壱)

信州鎮撫隊・梁田の戦い

 

信州鎮撫隊会津へ、衝鋒隊と改称し越後へ出立

 

〈衝鋒隊、会津をめざす〉

重・軽負傷者を抱えながらの行軍は大変なものであったと思われるが、それもかなりの距離であったが舟生村まで進み、宇都宮付近の兵(彦根藩か?)と遭遇し、銃撃戦となったが奇勝し小銃七挺の戦利品を得て意気揚々と引き揚げている。

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三月十二日(4月4日)、会津藩が「藩四境防備体制」を改め、日光口方面にも出陣するようになった。この日、信州鎮撫隊は舟生を出立、会津西街道の険峻な山間の道を進み藤原宿に入り、宿陣する。この時の隊士数六百十一人とある。

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十三日八ッ時(午後二時)出立し、十五日会津領五十里村まで進み宿陣。この間、十三日は何処に宿陣したのか資料がなく分からないが、十二日の藤原とは舟生からそれ程離れていない小佐越か大原辺りかも知れない。重症を含む負傷者を率いての行軍である。十一日の行軍でそれらの者が傷が悪化したのか進軍はそれ程進めなかったのではないだろうか。従って十四日はいわゆる藤原から五十里の間に宿陣したものと推察する。(十一日藤原=滞陣、十三日大原、十四日五十里と判明)

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三月十五日一行は会津藩境の五十里宿に入った。(衝鋒隊戦史より)この頃は、まだ藩境防備陣(会津藩)は五十里には滞陣しているとは思えないが「関門」「見張り番陣屋」などはあったものと思われ、多くの負傷者をみて会津藩士は、まず負傷者の治療を考慮し、若松行きを勧めたものと考察する。古屋総督は勧めに応じ、参謀の楠山兼三郎、改役の酒井兼三郎と共に負傷者を率いて先発し、十五日若松をめざした。本隊は十九日まで滞陣することになった。

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これより先三月十四日、会津藩砲兵隊(大沼城之助小隊長)が日光口警備を命じられ、十五日田島、十六日五十里に着陣した。古屋総督一行は途中で出会ったものと思われる。また鎮撫隊の本隊は五十里で会津砲兵隊に会ったと考えられ、面談が行われたと考察する。

〈会津若松城下へ〉

「衝鋒隊戦史」によれば

〇三月十四日には軍を五十里宿(会津西街道)に進め、会津藩の勧めにより、梁田戦闘以来の傷病兵を預けるため、古屋佐久左衛門、楠山兼三郎、酒井兼三郎の三名はこれを護送して会津若松城に向かって先発し、続いて十九日には今井信郎、全軍を従えて行軍を起こし、二十二日相前後して一同若松城下に着するを得、直ちに会津藩の老臣若二公(容保、喜徳)に謁見して委細を告げ、且つ七日町に滞在せる仙台藩の玉虫十左衛門(左太夫)を介して、米沢藩千坂太郎左衛門(家老)等と謀議の結果、奥羽連合の策なりたれば、其の夜はあらかじめ旅宿として設備されたる日新館に入り、一同久濶(久び士)にして円かなる夢を結びたり。

三月十五日、五十里村にて会津藩に負傷者の治療を進められ、古屋・楠山・酒井の三名は負傷者を率いて会津若松へ出立した。本隊は十九日、五十里を出立し若松をめざしたのである。

三月二十二日、古屋一行は若松城下に到着し、古屋ら三人は若松城へ登城し宰相松平容保、藩主喜徳に拝謁し、負傷者を藩校・日新館に入れ、幕府典医であった松本良順の治療を受けることとなる。

古屋佐久左衛門は城下七日町清水屋に滞宿する仙台藩士玉虫左太夫と面談、さらに米沢藩家老千坂太郎左衛門に謁見して、仙台・米沢両藩の会津救解の動きを聞き、奥羽諸藩の動勢等々を聞き、同盟への足掛かりを感じたのか意を強くし、信州鎮撫へ出立の決意を新たにしたようである。

三月二十四日(五日とも)本隊が若松に到着し、若松城三の丸にて松平容保に拝謁し日新館に入る。翌日、城下興徳寺に於いて梁田戦争で戦死した軍監柳田勝太郎(会津藩士)以下六十二名のための追善供養を営んだ。

〈興徳寺〉 2010年9月19日撮影

興徳寺

〈衝鋒隊会津城下へ〉

〈説明版〉

会津藩校日新館は五代藩主松平容頌の時代に、家老田中玄宰の建議によって企画され享和三年(1803年)に完成した。「日新」の名は大学の「苟(まこと)ニ日モ新タナラバ日ニ日ニ新タニ マタ日ニ新タニセン」の文に由来し、その教育は藩祖の遺訓を旨とし、文武両道にわたる幅広い内容であった。文は漢学を主とし、天文学、蘭学、舎密学(せいみがく=化学)等にわたる多数教科制で、今日の小学校から大学まであり、武は兵学をはじめ、弓術、刀術等武芸全体に及び、学力の水準は群を抜いていた。ここに郷愁の旧藩校を復元し、江戸時代建築の粋をあつめた観光悪物館として更に本学の教育綱領にもとづく研修の場として広く社会に提供し、国際的にも開かれた社会教育の拠点とする。

施設概要

大成殿(講堂) 講釈所(大学) 武講(研究所) 素読所(小学)

東西武学寮 射弓亭

建造物計 四、八五〇平方メートル(二、四七十坪)

総地積 一二六、〇〇〇平方メートル(三八、〇〇〇坪)

〈会津藩校日新館〉2004年8月29日撮影

会津藩校日新館

 

会津藩校日新館

会津藩校「日新館」再建 2004年8月29日撮影

会津藩校日新館

〈衝鋒隊、会津を去る〉

興徳寺に於いて追善供養を行った衝鋒隊は七日町(城下)の清水屋旅館に居た仙台藩士・玉虫十左衛門、米沢藩士千坂太郎左衛門に面談し奥羽諸藩の会津救解の動きを聞き、微妙な立場にある会津藩を思い、三月二十六日(4月18日)日新館を出立し坂下宿へ向かい、片門から船で阿賀川を下り、会津藩領の水原陣屋に宿陣、その後、越後に向かい信州陣屋へ進むが、西軍と戦いとなり奥羽列藩同盟と共に「越後の戊辰戦争」へ参戦していく。(詳細は「会津戊辰戦争(参)」を参照)

会津藩校日新館 2004年8月29日撮影

会津藩校日新館

〈日新館天文台跡〉

〈説明〉

史跡 天文台跡

天文台は会津の藩校日新館天文方の天文観測の場として設けられたものである。日新館は五代藩主松平容頌公の時、寛政十一年(1799)四月より五年の歳月を費やして享和三年(1803)に完成した。天文台は常に星の観測をするところであったが、特に毎年冬至の日には学校奉行天文方の師範・暦家が集まり、晴雨・考暦を編したところで重要な施設の一つであった。観台は当時の規模の半分となったが、藩校日新館の施設の中で唯一の保存されているものである。

日新館天文台跡

日新館天文台跡

日新館天文台跡

〈衝鋒隊、越後へ出立す〉

三月二十五日、古屋らは一橋領播州の徴兵制よりなる「歩兵第十六連隊二個中隊」を新たに加え、信州鎮撫隊から衝鋒隊と改称し隊士七百余名は傷病兵を会津藩に託し、若松城下を出立し越後を目指した。

二十七日、阿賀川を舟行、水原に上陸し、会津藩水原陣屋に着陣する。水原陣屋は一月二十九日に徳川家より越後国内に領地を預けられ、蒲原・魚沼の両郡のうち、石高一万三千石余の地を賜っていたのである。そのため、幕府の水原陣屋は会津藩の陣屋となっていたのである。そのため会津藩士萱野右兵衛が三月十二日、若松を出立し、十四日水原陣屋に至り滞陣していたのである。

水原に着陣した衝鋒隊は三月三十日、今井信郎、前田兵衛、永井蠖伸斎を村上藩へ赴むかせた。「北越同盟」の打診であった。

新発田城跡 2013年8月16日撮影

新発田城跡

〈新発田城二の丸跡〉

「衝鋒隊戦史」では

〇二十九日払暁より今井、永井、前田の三名を新発田城に赴かせ、親しく藩主に面談しておもむろに意志のある所を告げ、向背何れとも返答すべき旨、るいるい数千言極めて論難したるも、事体重大に属するの故をもって彼れ容易に決答を与えず、数日の猶予を懇望したるも止まざれば一行も止む無き決答の一日も遅いならんを促して本隊に帰り、四月一日更に本営を新潟に進め大いに示威的行動にいでたる後、前田、永井の両名を村上の陣屋につかわして「我れと同盟を結び奸徒掃蕩のため同一行動をとるか、銃火の間に決着を決せん」とすこぶる強硬の態度をもって交渉せしめも、これもまた何ら要領を得るなく帰陣する——-とある。

新発田城二の丸

〈「衝鋒隊」越後に入る〉

三月二十五日、六日頃、会津若松を出陣した衝鋒隊は途中から阿賀野川を船で下り、二十七日会津藩「水原陣屋」に着陣していた。そして三月二十九日か三十日に新発田城下に「頭並隊長・今井信郎」「副隊長・永井蠖伸斎(鈴木蠖之進)」「同・前田兵衛(会津藩士桃沢彦次郎)」の三人は赴き「新発田藩家老中西弥門太」に面談を申し入れた。衝鋒隊総督古屋佐久左衛門は若松城下滞陣中、仙台藩士(用人)玉虫十太夫、米沢藩家老千坂太郎左衛門らと面談し会津救解の動向、やがては奥羽列藩同盟の動きなどをつぶさに聞いており、幹部の今井信郎らにも語っていたものと思われ、今井らはそれらを踏まえた上で新発田藩に面談を申し入れたものといえよう。さらに水原陣屋に於いては会津藩から新発田藩の動向も聞いていたものと考えられる。しかし、このひの面談からは新発田藩の明確な回答は得られず、再度の訪問を言って終わっている。

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この面談に桃沢彦次郎の名がある所をみると、三月九日(4月1日)の梁田の戦いで負傷したと記録されていたが、軽症であったのだろう。

衝鋒隊

〈衝鋒隊「新潟」へ転陣する〉〈衝鋒隊本陣=勝楽寺〉

四月一日(4月23日)水原陣屋に滞陣していた衝鋒隊は新潟に転陣し約総勢七百余名は勝楽寺を本陣とし「即徳寺」「正福寺」「浄楽寺」に分宿した。すでに評議して定まっていたのか副隊長・桃沢彦次郎(前田兵衛)、永井蠖伸斎は村上藩に向かった。昨日、新発田藩に申し入れた共に西軍と一戦を辞さない覚悟と諸藩の同盟等々を確約するための出立と思われる。

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一方、新発田城下に滞陣していた朱雀二番寄合組(土屋総蔵)らも小千谷方面の情況切迫のため、四月三日出陣し新潟に進出したのではないだろうか。上記資料には会津藩士西郷源太郎、秋月悌次郎らが七十人余の藩士を率いてきたように考えているが、二人は用人(公用方)であり、また、四月三日の事である。従って「正念寺」「瑞光寺」に宿陣したのは土屋総蔵らの一隊と推察するが、土屋の隊は隊を分隊し新潟の沼垂に出張している(四月三日)。さらに土屋の本隊は四月二日に新発田城下に宿陣先を移陣しているのである。四月三日には、すると別の会津藩の諸隊かも知れない。西郷源太郎(源五郎?)は軍事方、秋月悌次郎は聞番という役に就いていた。やがて会津藩越後口の政事・軍事方を定める時には名を出している。矢張り出陣してきたのだろうか。

衝鋒隊本陣=勝楽寺

ここで一旦衝鋒隊の動向を終え、越後における会津藩の動向を追っていく。

〈越後に於ける会津藩の動向〉

衝鋒隊本陣=勝楽寺

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