飯山藩の裏切り、衝鋒隊敗北、酒屋陣屋まで撤退

高社山会津戊辰戦争(参-壱)

新潟治安維持にむけ越後同盟成立す

 

飯山藩の裏切り、衝鋒隊敗北酒屋陣屋まで撤退

〈西軍の動向〉

三月下旬に会津藩は藩四境防備陣の再編成を実施し越後方面に出陣した諸隊の入れ替え、転陣が繰り返されていたが、四月四日越後六藩同盟が成立、新潟港の重要拠点も安定化し治安も衝鋒隊の行動も同盟成立により沈静化していた。

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一方、一月十七日北陸道鎮撫総督府(総督公卿高倉永祐、副総督同四条隆平、参謀津田信弘・小林柔吉)が京都を出立し、偽官軍(相良総三)事件が起きたりしていたが、二月十五日には越前(藩主松平春嶽=松平容保の実兄=京都在中)に侵軍していたが、総督高倉は一旦江戸へ向かった。この頃東山道総督府は信州路を侵軍している。

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西軍・大総督府は東海道鎮撫総督府も京都を出立させ、旧幕府総裁勝海舟と西郷隆盛(薩摩藩)の会談が行われ、四月十一日江戸無血明け渡しが決行された。それを不満・不服とする旧幕軍は数千人が江戸を抜け出し、関東周辺で西軍と戦いを展開する。しかし、西軍大総督はそれも制圧すると奥羽鎮撫総督府の外に奥羽追討白河口総督を設け、北陸道鎮撫総督府の改編を行い四月十九日(5月11日)参謀に山形有朋(長州藩)黒田清隆(薩摩藩)を任命し東山道総督府の一部を(岩村精一郎=土佐藩)合流し、越後と白河からの会津追討を決めたのである。

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岩村の隊は信州をめざし、大垣藩・尾張藩を率いて閏四月七日(5月28日)上越・新井に侵出し、北陸道総督府の到着を待っていた。一方、その本隊は閏四月十九日(6月19日)江戸から海路をとり(薩摩・加賀・富山・長州藩を率いて)上越・高田へ上陸した。さらに五月には東山道第二総督の公卿西園寺公望が一隊を率いて北陸道総督府に合流し総督となるのである。

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高田に上陸した北陸道総督府は岩村の隊と合流し総勢六千人ともいわれる軍隊を

(1)海道軍(軍監・三好軍太郎=長州藩)は一千五百の兵士、砲六門

(2)山道軍(軍監・岩村精一郎)二千五百の兵士、砲十八門

を二手から侵軍することに決した。

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話を四月に戻し、再び越後方面を追っていく。

江戸の状況

衝鋒隊の動向

越後方面への出陣命を受けた会津藩・山内大学(百八十石)は、三月十九日(4月11日)越後街道の横田村に入ると、添役の大嶋音之助に村人に徴募の触れを出した。横田村は山内大学の出身地であり、地方郷士の家来が居住していたようである。村々からその呼びかけに応じ徴募者が多数あったという。数日後、山内大学は鉄砲等々の軍事教練を行い、約一ヶ月後の四月十七日(5月9日)横田村を出陣し、叶津陣屋から八千里峠を越え入広瀬村の大白川方面に出陣した。村人、人足八十人程見送ったという。後に越後の軍事・政事の人事を定める時には、山内大学は農兵四百人の隊長となっている。

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一方、衝鋒隊は高田城へ派遣した楠山、松田を高田会議所に残したまま四月二十日(5月12日)新井を出陣し飯山藩と藩境長沢宿に飯山藩士坂本雄兵衛、黒田直右衛門らが出迎えていた。さらに富倉峠には浅野平馬藩士が出迎え城外に設けられた宿舎へ案内された。ここでも厚いもてなしを得ている。飯山藩主は古屋らの越後同盟を聞き加盟すると誓約を結び将来を約した。古屋らは力を得たため、周辺の諸藩に檄文を送った。さらに古屋総督は前軍の今井信郎ら一隊を新井宿に四月二十四日(5月16日)戻させ、同盟加盟のために残した楠山兼三郎らと共に藩境守備の布陣を敷き、松田昌次郎を柏崎に赴き桑名藩会津藩を率いて帰陣した。

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一方、飯山城下に滞陣していた中軍、後軍の古屋総督、隊長の内田庄らは信越国境辺りに西軍が陣営している情報を得ていた。北陸道軍への合流を命じられ西軍東山道軍から出陣してき岩村精一郎の一隊の先鋒隊であった。四月二十四日の夜、その先鋒隊は千曲川の対岸高社山に数百の篝火を焚き布陣した。古屋総督は村民に訪ねるが松代の藩兵らしいとの報せであったが味方か敵か判断がつかないため、書状をしたため頭取・秋山繁松に持たせ、飯山藩士の教導のもとに高社山に翌二十五日朝、出立させた。

越後での衝鋒隊

飯山城跡

写真=幕末維新大戦争

飯山城跡

歴史って本当に面白い。「飯山の戊辰戦争」

〈飯山の戦い〉千曲川

四月二十五日(5月17日)朝、古屋総督は飯山藩の教導を得、高社山に布陣する軍へ使者の一隊を派遣した。千曲川を船で渡って半ば程進むと突然、対岸の堤防から激しい銃撃に見舞われ、斃れる者、水中に落ちた所を射撃される隊士が続出した。使者にたった頭取秋山繁松は引き返すことを命じ、直ちに本隊に知らせた。隊長の内田庄司、副隊長木村大作らは一隊を率いて千曲川の堤防に出陣、隊士を散開させ猛反撃を開始した。激しい銃撃戦となり戦いは約一時間程続いたという。西軍・松代藩は山腹に砲列を敷き始めた。衝鋒隊はその砲台の砲手を射撃、一発の砲弾を撃つ事なく皆銃弾に倒れたという。

飯山の戦い

飯山の戦い

〈高社山〉

衝鋒隊副隊長桃沢彦次郎(会津藩士)、永井蠖伸斎は飯山藩から大砲を借用しようと飯山城をめざし、約四、五百メートルと迫った時、突然城の大手渡櫓より銃撃が起こり、たちまち三、四人の隊士が銃弾に倒れ戦死する。桃沢らも反撃する。しかし、城内から大砲、銃撃が激しさをます。まさかの飯山藩の裏切りであり、寝返りであった。

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一方、千曲川を挟んで戦う衝鋒隊は大砲の到着を待ちながら必死の防戦を続けていたが、後方に銃声が起ると挟撃の恐れから、飯山城をめざして退いた。まさか飯山藩と戦っていると考えもつかなかった事が眼前に展開されているに驚くが、合流して落城させようと戦いに加わった。教導役として同行していた飯山藩兵は事の意外なるさを知り驚き、隊を乱して遁走した。

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一方、千曲川に戦っていた松代藩は須坂藩と合流し、千曲川を渡渉し、後方からも攻撃される。衝鋒隊は、ついに撤退せざるやむなきに至る。

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この後に、新井宿に滞陣していた前軍(今井信郎)が、この戦いを知り、その夜のうちに出陣命を出し、足の続く限り駆けつけて、城下に陣を敷く松代藩と戦闘となるか次項に掲載する資料を参照。

高社山

資料=幕末実戦史衝鋒隊戦史

幕末実戦史衝鋒隊戦史

衝鋒隊酒屋陣屋まで撤退

四月二十六日(5月18日)川浦まで退いた衝鋒隊はその夜高田藩に夜襲をかけられ農兵の攻撃を受けながら大崎村にに退き、追々集結した隊士を数えると約三分の一の隊士を失っていたという。弾薬は大雨などにより湿って使用かなわず、再戦は無理と判断し小千谷をめざし、閏四月一日(5月22日)四日間かけて小千谷に到着した。一日の宿陣後、小千谷より信濃川を船で下り酒屋陣屋に着陣した。直ちに軍議を開き、副総督(頭並隊長)今井信郎、副隊長桃沢彦次郎は弾薬・兵器の調達に水原陣屋(会津藩布陣)へ、副隊長の永井、楠山は軍議打ち合わせのため柏崎(桑名藩滞陣)へ、さらに副隊長天野新太郎、梶原雄之助をはじめ、負傷者は治療のため会津若松へ向け出立する。酒屋陣屋滞陣中、川浦で四散した隊士も追々酒屋に集まる隊士もあり、次第に士気が高まってきたという。

会津藩の越後方面での布陣と偽名西郷蔵之進の借用金事件

衝鋒隊撤退

 

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