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信州鎮撫隊、江戸-桶川宿-忍藩-羽生宿を経て梁田へ

川俣関所跡会津戊辰戦争(参-壱)

旧幕陸軍歩兵隊の江戸脱走と古屋佐久左衛門らによるその鎮撫

信州鎮撫隊

江戸-桶川宿-忍藩-羽生宿を経て梁田へ

〈大雲寺山門〉

「信州・中野陣屋」を本陣とし「信州鎮撫」を命じられた古屋佐久左衛門らは「歩兵第六連隊」の先鋒人陣を率い、三月一日(3月24日)江戸を出陣した。

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先鋒陣を率いて江戸を出立した「信州鎮撫隊」は桶川宿に入ると本陣を大雲寺に設け宿陣する。

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因みに「新選組」は「甲陽鎮撫隊」と称し「甲府城」へ出陣命が勝海舟から出され、同じ日に出陣している。「慶喜の恭順」の実を上げるために、主戦論者を江戸から出す事を考えていた勝海舟であった。

2006年4月4日撮影

大雲寺山門

〈大雲寺〉〈古屋佐久左衛門ら宿陣〉

大砲三門を持ち、フランス式教錬を受けた旧幕歩兵隊が桶川宿に入ってきた時は村民は驚いた事であろう。昔の槍と刀だけの軍隊ではないのである。

大雲寺・古谷佐久左衛門宿陣

〈鐘楼〉

古屋佐久左衛門は「鳥羽・伏見の戦い」には参戦していない。江戸にいたという。元治元年(1864年)に「英学所教授方助」となる程の英語に通じていたという。それまで「神奈川奉行所定訳」さらに運上役になる。この奉行所にいた頃に今井信郎を知り、意気投合し親交を深めたという。

大雲寺鐘楼

〈桶川本陣跡〉

奥の門の奥が本陣跡である。

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左の瓦屋根が修復された本陣

誰もいなく、見学は出来なかった。

桶川本陣跡

桶川宿本陣古図

桶川宿本陣古図

桶川市立図書館

桶川市立図書館

桶川宿

桶川本陣遺構の歴史

桶川本陣遺構の歴史

桶川の大雲寺に宿陣した古屋らは碓氷峠を越えて「信州中野陣屋」を目指す予定であったという。勿論、忍藩に預けた歩兵第十一、十二連隊の隊士らと合流してからである。

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しかし、西軍「東山道総督府」(参謀板垣退助(土佐藩))の先鋒陣がすでに深谷辺りに侵軍している情報を探知し、進路の変更などの評議を行ったものと思われる。

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資料では(前掲載)三月一日江戸出立とあるが、その江戸は板橋宿であったかも知れない。江戸からかなりの距離である桶川宿である。

桶川宿

〈忍藩へ預けた「歩兵隊」を引き取る〉

三月二日(3月」25日)桶川・大雲寺を出陣した古屋らは忍城に入り、先に預けた歩兵隊を引き取った。かなりの脱走した隊士もあったというが、約三百七十余名の隊士を合流させた。

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この時、忍藩の用人岸嘉右衛門は丁重に迎えたが、西軍の先鋒隊が「本庄宿」に到着したのを知り、このまま古屋らが滞陣すれば、戦闘となる事を恐れ、幕府方に好意を持つ藩医の久河道伯(くがどうはく)をつかわし、六百両とわらじ一千足を献納し城下から退去を求めてきたという。

忍城=行田城 2006年4月4日撮影

忍城=行田城

〈忍城・本丸跡〉

古屋佐久左衛門は西軍が侵軍してきている事を知り、もとより戦いが目的でなく「信州鎮撫」が目的であるため、進路を大きく迂回し「羽生」に向かった。そこで、西軍の通過を待つことに評議で一決したのである。

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「本丸跡」の土塀には狭間があり、鉄砲・弓などが射てるように造られている。

忍城本丸跡

〈忍城・大鼓門跡〉

忍城には十五門の城門があったという。二月二十五日(3月18日)、三月二日(3月25日)古屋佐久左衛門らはどの門から入城したのだろうか。それとも城下で忍藩公用人岸嘉右衛門らと面談したのであろうか。また忍藩出身の永井蠼伸斎は脱藩していたのであろうか。

現・行田市立忍中学校 2006年4月4日撮影

忍城・大鼓門跡

〈忍城の鐘〉〈城下の街並み〉

忍藩に預けていた歩兵隊を引き取り、十分に警戒しながら、斥候を放ちながら行軍「熊谷宿」まで進むと斥候の頭・秋沢貞治が急ぎ戻り、西軍の先鋒隊が「本庄」に着陣との報せに古屋らは評議を行い無用な衝突は避けようと決め、大きく迂回して「東山道総督府」が通過するまで待つこととなり「羽生宿」をめざした。

忍城の鐘

〈古屋佐久左衛門ら羽生陣屋に滞陣〉

「羽生市史」によると、三月四日(3月27日)に古屋らが羽生宿に入ったとある。忍城下に一泊~三泊したことになる。それとも桶川・大雲寺に二泊したのだろうか。旧幕・勝海舟から「信州鎮撫」を命じられ歩兵第六連隊の同行(合流)の件もあったため追い付くのを待っていたのかも知れない。しかし「衝鋒隊戦史」には羽生に五日間も滞陣となったと記されている。

羽生陣屋

〈羽生陣屋に滞陣〉〈羽生陣屋跡〉

羽生陣屋は川俣関所を重視し慶応三年(1867年)三月、羽生領十八ケ村を天領として「関東群代木村勝教」の支配下に置き建設されたものである。「高山稲荷神社」は当時は小高い所にあったという。物見の跡と伝わっている。

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「衝鋒隊戦史」に沿うと、三月三日(3月26日)「熊谷宿」から大きく迂回して「羽生宿」に入った。ここで西軍の侵軍通過を待ち、熊谷宿へ引き返し信州をめざすことにしていた、しかし、西軍は先鋒隊が熊谷宿から先に侵軍する気配がなく、この羽生に五日間の滞陣となった。西軍も密偵・斥候を放って「衝鋒隊(信州鎮撫隊)」の動向を察知していたのである。「本庄宿」に本隊が宿陣中である。この頃、旧幕軍、脱走の兵もあり、攻撃を警戒し十分に連絡、また軍議を行っていたのである。

現・東谷郵便局 2006年4月4日撮影

羽生陣屋跡

羽生陣屋に入った古屋佐久左衛門らは、西軍の通過を待った。しかし、西軍は一向に侵軍する気配がなかった。古屋は徒に戦いをする意思はなく、また西軍は勅使一行をも警護しているとの情報も得ていた。徳川慶喜の謹慎もさる事ながら、古屋らにも朝廷に対する(天皇)気持ちは同じであった。そのための迂回路であり、滞陣であった。

羽生市史上巻

〈羽生陣屋跡〉

※今回の史跡めぐりは図書館が定休日にぶつかり、市役所の案内で商工会議所を訪ね、親切な係員の方が市史をみせてくれコピーまで許可された。市役所の観光課の職員も私が訪ねたい場所を懇切丁寧に地図をみせながら教えてくれた。

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羽生市史によれば、三月四日に羽生陣屋に第一陣が入り、五日に忍藩より第二陣が入り、七日に第六連隊が着陣しているとある。第六連隊は二百五十人とある。

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古屋らは先鋒陣であり、それをまた分隊し、先に羽生陣屋に先触れとして入らせ、自らは預けた歩兵隊と共に五日に入ったのだろうか。

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三月七日(3月30日)旧幕府から古屋の下に参加し「信州鎮撫」を命じられた歩兵第六連隊が羽生に入り合流した。桶川から羽生に入ったものと思われる。

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第六連隊と合流した信州鎮撫隊は評議、隊の編成をした。約八百七十余名の大軍隊となったのである。

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三月六日の梁田の戦いの翌十日、西軍は羽生に押し寄せ羽生陣屋に放火し、焼失した。その夜、村民はこの陣屋建設に協力した村々の各主邸を襲い打ち壊しの暴動を起こし、揚げ句の上放火したという。陣屋建設に村民は大変な苦労をさせられた思いが一気に爆発したという。

〈隊を再編成する〉

三月七日(3月30日)第六連隊と合流した鎮撫隊は評議を行い、組織の再編成を図った。

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「下記」の資料に会津藩士の名が記されているが、会津藩は藩主松平容保が二月十六日(3月9日)会津に帰国するために江戸をを出立しているが、その時フランス式教練を命じ、残留させたが、それも三月一日(3月24日)からすべての藩士の帰国が始まっている。さらに三月五日(3月28日)家老西郷頼母が最終帰国者として江戸を出立するが、その前日(四日)江戸残留を希望する藩士、小銃や弾薬等の調達のために藩命で残留する者もあった。

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この「衝鋒隊」は会津藩帰国前にすでに参加しており、藩の暗黙の了解があったものと思われる。また資料に残会津とあるは、三月二十二、二十五日に衝鋒隊が会津若松に着陣した時、または北越の戦いから会津入りした時に会津藩に復帰したものと推察する。副隊長の桃沢彦次郎は会津藩が開城時に活躍している。

資料=幕末実戦史(衝撃隊戦史)

幕末実戦史衝鋒隊戦史

幕末実戦史衝鋒隊戦史

幕末実戦史衝鋒隊戦史

 

 

川俣関所跡

川俣関所跡

2008年6月5日撮影

川俣関所跡

川俣関所跡

〈羽生陣屋から出陣、梁田へ〉

三月七日に隊の再編成を成した古屋佐久左衛門は何日たっても侵軍しない西軍に、ついに行程を変更し信州に向かう事に決し羽生から出陣する。道は本庄に滞陣する西軍の本隊を避け、迂回路を進んだ。

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三月八日(3月31日)隊を三分化して

(1)前軍 頭並隊長 今井信郎

(2)中軍 総督 古屋佐久左衛門

(3)後軍 隊長 内田庄司

と定め、出陣した。八百五十余名~八百七十余名であった。昼頃であったという。

信州鎮撫隊・梁田の戦い

羽生から梁田へ

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