棚倉藩主と長岡藩主の宿陣跡

牧野忠恭・忠訓会津戊辰戦争(弐-三)

旧幕典医の松本良順と旧幕府老中板倉勝静、会津若松へ

棚倉藩主阿部正静と長岡藩主牧野忠順の宿陣跡

〈棚倉藩主・阿部正静(美作守)の宿陣跡〉〈願成就寺〉

棚倉藩主・阿部正静二十万石は旧幕府・徳川慶喜から白河城への転封を命じられ二月二十八日(3月21日)江戸を出立、三月三日(3月26日)白河城へ入る。

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白河城は奥羽州への玄関口であり、幕府は代々譜代大名を配置し反徳川の謀反を警戒し、永代の城主は置かなかった。この時は二本松藩が白河城を守備していた。しかし、西軍の奥羽鎮撫総督府が仙台に入ると、白河城、須賀川、棚倉周辺の幕府領地を「仙台藩管轄地」にする事を総督府は命じ、仙台藩を会津追討に出陣させたのである。(四月七日であった)

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そのため、阿部正静は三月十一日(4月3日)前藩主・正外が白河城に移ってきたが、「白河城転封」命は大政奉還後の沙汰である事から、無用の争いの問題となる事をさけ、三月十三日(4月4日)から十六日にかけて再び「棚倉城」へ移った。総督府は会津侵攻の拠点とすべき、白河城へ四月三日(4月25日)仙台藩を入城させた。

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棚倉藩阿部正静がいつ会津藩に入ったのか、今の所はっきり掴んでいないが白河城が西軍に占拠された(五月一日)五日後の六日、棚倉藩士高松右兵衛、平田弾右衛門ら約二十人程、若松城下に入っている。二日後、平田は再び戻っている。この時、おしのびで藩主も混ざっていたのだろうか。

棚倉藩主

〈棚倉藩〉

六月二十四日(8月12日)棚倉城落城を聞き、若松城下を出立し白河口中地で守備する会津藩家老内藤介右衛門を訪ね、棚倉藩士松林新左衛門がその情況を聞いている。六月二十七日、さらに会津藩主松平喜徳は白河口に出馬し赤津に宿陣中であった。棚倉藩家老・富加須庄兵衛は喜徳に拝謁し、三代で藩主阿部正静に出会って、同行した会津藩内藤介右衛門共々面談している。

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棚倉城落城時、城内にいた「阿部正外」は須賀川に逃れ飯坂に退去した。家族は長沼に避難していた。阿部正静は一族(家族)と合流し飯坂へ向かったものと思われる。

棚倉藩

〈長岡藩主牧野忠順、(前藩主)牧野忠恭の宿陣跡=健福寺〉

五月十九日(7月8日)西軍は軍監三好軍太郎(長州藩)に一隊を率いさせ、大雨で水嵩が増している信濃川を渡河し、朝露を利用し守備が手薄になっている「中島」に上陸、長州・薩摩・高田藩兵は民家や兵学所に火を放ちながら長岡城下へ奇襲攻撃をかけ「朝日山」方面に主力を出陣させていた長岡藩筆頭家老河井継之助はガドリング砲を持って馳けつけ反撃するが、城内には老人、婦女子が多く、必死に攻防するもついに「落城」した(詳細は「会津戊辰戦争参」参照)

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長岡藩主十一代牧野忠恭の時代は幕末で国全体が「回天」の時であったが、幕府老中「寺社奉行」「京都所司代」の重要な地位に就き「幕藩体制維持」に活躍するが家老の河井継之助の建言により「所司代」を辞職し帰藩、藩主を「忠訓」に譲った。十二代藩主となった牧野忠訓は河井と共に「富国強兵」の藩づくりに邁進、次々と藩改革を断行し、近代兵器と兵制によって、「鳥羽伏見の戦い」後の西軍にとって恐れられる程の藩になっている。

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五月十九日、炎につつまれる城を脱出した牧野父子、婦女子は数十人の藩士に守られながら「悠久山」「森立峠」「六十里峠」を経て会津領「叶津陣屋」に至り「只見川」に沿って若松城下をめざした。「叶津・陣屋」に入った時、藩主忠訓は僅かな藩士を残し、他は河井継之助らが宿陣する「栃尾」に返し、婦女子共々若松をめざしたという。

棚倉藩

資料=会津戦争 白虎隊と河井継之助

牧野忠恭・忠訓

牧野忠恭・忠訓

健福寺よりの資料

健福寺

河井継之助埋骨遺跡案内図

河井継之助埋骨遺跡案内図

〈長岡藩主の墓=栄涼寺〉

〈説明文〉

〈牧野家代々の墓〉

右から牧野忠穀(ただかつ)、忠訓(ただくに)、忠篤(ただあつ)の墓。忠穀は十三代長岡藩主。十一代藩主忠恭(ただゆき)の第四子で幼名を鋭橘(えいきつ)といった。北越戊辰戦争後、再興された長岡藩の藩主となった。忠訓は丹後宮津(京都府宮津市)藩主、本荘宗秀の代二子であったが、忠恭の二女彜姫(つねひめ)をめとり十二代藩主となった。北越戊辰戦争では辛酸をなめ、奥羽各地を転々とした。忠篤は忠恭の第六子で初代長岡市長・貴族院議員となった。

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この栄涼寺には戊辰戦争の戦死者らの多くの墓がある。河井継之助の墓もある。(戊辰戦争(参)参照)

2003年8月24日撮影

長岡藩主の墓=栄涼寺

〈長岡藩主歴代の墓〉

戊辰戦争当時の藩主牧野忠訓は、五月二十四日(7月13日)会津若松城下「健福寺」に宿陣していたが、八月二十三日(10月8日)西軍が若松城下に侵入すると婦女子を「米沢藩」に向かわせている。

2003年8月24日撮影

桑名藩藩主松平定敬・海老名郡司・請西藩主林忠崇動向

長岡藩主の墓=栄涼寺

 

 

 

 

 

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