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天誅組の顛末と志士の碑

天誅組京都守護職時代

徳川家茂将軍「上洛」する

 

天誅組の顛末と志士の碑

 

 

〈天誅組挙兵〉

「八・一八の政変」前後に「大和五条」に於いて「天誅組」が挙兵し幕府討伐を図った「天誅組」について少しだが史料を追ってみる。

天誅組

〈天誅組本陣跡門〉

〈説明〉天誅組

江戸時代末期、尊王攘夷派志士一派の乱、一八六三年(文久三年)一〇四年前八月十七日吉村寅太郎、藤木鉄石等の志士は公卿中山忠光を擁立し大和国(奈良)の南部で討幕の兵をおこして五条代官を襲撃した。これを五条の変、十津川の変、大和義挙ともいう。志士らは翌十八日行われる予定だった孝明天皇の大和行幸(攘夷親征)が政変のため中止されたので、天誅組の大義名分を失い諸藩兵の討伐を受け十津川にこもって戦った藤木、吉村らは戦死し他は捕えられて天誅組は一ヵ月余で壊滅した。兵を挙げるに際して百姓の暮しの苦しみを利用して農兵を組織し戦を始めたが目的の喰い違いにより農兵の疑を起すものもあり裏切り密告等続出忽ち敗退す。一書には百姓一揆と覚書あり。

天誅組

天誅組

天誅組

天誅組

天誅組

明治維新の魁 天誅組

〈天誅組志士墓所〉(京都霊山)

天誅組

天誅組の人々

文久三年(1863年)八月十七日、土佐の吉村寅太郎、美川刈谷の松本謙三郎、備前藤本鉄石等、中山前待従忠光をたて大和国に義兵を挙げ天誅組と名づける。吉村寅太郎、同藩の間崎哲馬らについて文武を学んだが成績をきわめて優秀また他の志士より男前で京都の同志間ではひときわ目立つ存在だった。「おくに」という娘と清純な恋愛をして悲愴な青春を楽しんだ。九月二十六日、単身鷲家村中で藤堂藩兵に囲まれ今はこれまでと「吉野山風に乱るるもみじ葉はわが打つ太鼓の血煙と見よ」の辞世を残し敵中に突進ハチの巣のように銃弾を受け斃る。天誅組総裁。藤本鉄石天誅組総裁年令は同志中最年長(四十七歳)文人墨客で昼は一心に絵を描いて生活の資を夜は志士とと会合し回天の策をめぐらすという二重生活だった。松本謙三郎天誅組副総裁槍術の達人なり。天誅組はこうした憂国ロマンチストたちの純粋な血だけを犠牲にしてあっけなく壊滅した。

天誅組

天誅組

〈梅田雲濱等志士の碑〉

〈安政の大獄と頼三樹三郎梅田雲濱等志士〉

安政元年(1854)日米和親条約、日露和親条約が天皇の許可なしに締結した。外国嫌いの孝明天皇まず「皇祖に申しわけ立たず退位する」のはげしい言葉。政界は京に移り尊王論と攘夷論が手を握り一挙に倒幕運動へと井伊大老(直弼)の大弾圧、また「違勅の元凶井伊を葬れ」の尊攘派、水戸慶喜と紀州慶福の将軍継承問題と幕府内の動揺もあり、井伊大老の決断以外に解決の道なく大弾圧となったのである。福音の人梅田雲濱、鷹司家の小林良典、山陽先生の三男頼三樹三郎、長州の吉田松陰等逮捕者総計百五十余人に及び、大部分が江戸送りとなり斬られ流されたが、かえって全国の志士を激昂させ、ついに井伊大老は万延元年(1860)三月桜田門外で襲撃された。このころより明治維新に向かって大きく政局は変わってゆくのであるが、この事件では有能なる学識者が憂国の赤誠もむなしく維新鴻業の礎石となったのである。

梅田雲濱

梅田雲濱

〈十津川村農兵の墓=明治百年記念〉

天誅組の一人であった土佐脱藩田中光顕が同士のために詠んだ詩牌。

新撰組誕生 八・一八の政変 禁門の政変

十津川郷士⑧(御親兵多難-天誅組の変)

1972年3月12日撮影

十津川村

 

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