〈鳥羽・伏見の戦い一日目〉

鳥羽伏見の戦い会津戊辰戦争(壱-三)

〈江戸・薩摩邸焼き打ち事件〉

 

〈鳥羽・伏見の戦い一日目〉

〈鳥羽・伏見の戦い〉

不意の攻撃に混乱した幕軍だったが、京都見廻組佐々木只三郎は部下を励まし闘い抜いた。 会津藩士であった。 (旗本家へ養子となっていたが)漸く態勢を整え直した幕軍も反撃を開始する。 しかし、赤池への砲撃で火災が起き、敵の小枝橋付近の陣営からシルエットのように浮かび上がる幕軍は射撃の的になってしまう。急きょ「下鳥羽」に陣地を構築した幕軍は、夕闇迫る中後退した。

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鳥羽伏見の戦い

 

一月二日(1月26日)幕軍、会津、桑名藩兵は(約八千名という)大阪城から出陣し、淀城下に宿陣。 三日(1月27日)朝、鳥羽街道を進み(一方は伏見方面に進み)下鳥羽をすぎ、赤池あたりで入京を阻止する薩摩藩兵と押し問答となり、延々と午後五時頃まで続いたという。 ついに薩摩藩は砲撃し、小銃を乱射し、ここに鳥羽・伏見の戦いが勃発し会津藩にとって最も長い戊辰の戦いが始まるのである。

鳥羽・伏見の戦い

〈小枝橋付近=鳥羽伏見戦跡の碑〉

一月三日(1月27日)鳥羽街道を北上してきた幕軍は「赤池」で休憩、そこへ薩摩藩の椎原小弥太が参り武装しての入京は許さないと拒否、互いに「勅諚」での入洛と、そんな話は聞いていないの押し問答が延々と繰り展げられた。夕刻が迫ってきた。幕軍滝川播磨守は、業を煮やし、ついに強行突破を通告する。薩摩の椎原は小枝橋、秋ノ山に布陣する自軍に戻り、その旨報告した。滝川が馬で小枝橋にさしかかる。その時、薩摩藩は突然砲撃を開始した。赤池の幕軍の大砲が直撃された。武装していた幕軍ではあったが、まさか戦端が開かれるとは思っていなかったため、薩摩の銃撃に大混乱となった。

(資料=朝日新聞夕刊1988年2月23日)

鳥羽・伏見の戦い

資料=会津若松市史近世4

小枝橋

〈小枝橋〉〈激戦地跡〉

鴨川(加茂川)に架かる小枝橋を東西の軍が対峙する。伏見側から望む小枝橋。

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幕府側が進んだ対岸から伏見・鳥羽市街を望む。

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37年振りに見る小枝橋は、元の橋より下流に架け替えられ、車が轟音をひびかせ走っていた。元の橋があった所から赤池方面を望む。

1967年10月10日撮影(上)

2004年8月6日撮影(下)

小枝橋

薩摩軍が歩兵三百名を配備した小枝橋付近

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左へ行く道が正面の「城南宮」の森への道。ここに砲列を配置していたという。右側のビル辺りが「秋ノ山」。そこからの砲撃が「戊辰戦争」への始まりであった。

小枝橋

〈この付近 鳥羽伏見戦跡〉

明治元年(1868年)正月三日(1月27日)夕方、この付近での戦が鳥羽伏見戦の発端となった。王政復古の後、将軍の領地返納をきめた朝廷、薩摩・長州藩らの処置を不服とした幕臣・会津・桑名藩は正月一日、挙兵、大阪から京都へ攻め入ろうとし、薩摩・長州軍はこれを迎えうった。城南宮には薩摩の野津鎮雄らが大砲を備えて布陣し、竹田街道を北上してきた桑名軍、幕府大目付滝川具挙が小枝橋を渡ろうとするとのを阻止して談判の後、ついに薩摩軍から発砲した。この一弾があたかも合図となって戦端はひらかれ鳥羽伏見領両方面で激戦がつづき、正月六日幕府軍は敗退した。この一戦をきっかけに戊辰戦争が始まった。

1967年10月10日撮影(上)

2002年8月6日撮影(下)

大目付滝川具挙

山崎大合戦図

京都「霊山」への路に建つ〝維新の道”の碑

山崎大合戦図

小枝橋

幕末大全より

鳥羽伏見の戦い関係地図

幕末大全より

鳥羽伏見戦手書き地図

鳥羽伏見の戦い

〈戊辰戦争・展かれる〉

一月一日(1月25日)京への進発の命が下されてから会津藩中心に出立の準備、出立する者があった。

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一月二日(1月26日)会津藩先陣は既に伏見に入り、東本願寺伏見別院、伏見奉行所に布陣する。

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一月三日(1月27日)幕軍の主力が淀城を出立、鳥羽街道を北上し小枝橋手前の赤池に幕軍の砲が据えられた。

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小枝橋に関門を設けていた薩摩藩との「入京」の押し問答が始まった。

鳥羽伏見の戦い

〈秋ノ山〉〈薩摩藩陣営跡=砲台築く〉

この秋ノ山からの砲撃が「戊辰戦争」の始まりである。

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〈碑文〉

秋ノ山

〈秋ノ山〉

一月三日(1月27日)朝、東軍は淀城下を出陣し、先陣が小枝橋に差しかかると布陣していた薩摩藩は「入京」の許可は出ていないと東軍の進軍を阻止せんと延々と押し問答を繰り返していた。午後五時頃「赤池」付近で待機している東軍陣営にこの秋ノ山から突然薩摩藩は砲撃する。更に戦いの準備を整えていない東軍に小銃の乱射を浴びせてきた。銃や砲に弾を込めていなかった東軍は驚きもあったが、反攻の準備整え応戦を展開する。

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〈上の碑文〉

鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地

小枝橋

小枝橋は慶応四年(1868)正月三日、京都目指す幕府軍とそれを阻止しようとする新政府軍が衝突し、翌年の夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが始まった所です。大政奉還し大阪城にいた徳川十五代将軍慶喜は薩摩を討つための上洛を決意します。大阪から淀川を上って竹田街道の京橋で上陸した先遣隊に続き、幕府軍本隊が鳥羽街道と伏見街道に分かれて京都に進軍しようとします。これを阻止しようとする新政府軍は竹田、城南宮周辺に布陣し、鳥羽街道を北上する幕府軍と「勅命ありとは聞いていない」という新政府軍の押し問答が続き、幕府軍が強行突破しようとすると薩摩藩がアームストロング砲を発射、この砲声を合図に幕府軍一万五千人と新政府軍六千人の激しい戦いが始まります。こうして始まった戊辰戦争は翌年の函館五稜郭の戦いまで続いて新政府軍が勝利します。新しい時代「明治」はここ伏見から始まったといえます。

秋ノ山

当時(戊辰時)は木々に囲まれた小高い丘、周囲は水田が広がっていたという。鳥羽一帯は戦場と化し、西軍はイギリス製のスナイドル銃、旧幕軍はフランス製のミニエール銃、大砲、旧式火縄銃で応戦、見廻組与頭の佐々木只三郎らの一隊は善戦し薩摩兵に多くの負傷者を出させているという。勝利したという。しかし、局地的な勝利も圧倒的な最新式の砲銃撃の下で前進がままならない状況が続いていった。

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白河天皇が造園し、11世紀から14世紀ころまでは「城南の離宮」と呼ばれ、宮廷人たちが利用していた庭園が鳥羽離宮跡公園として残っているのか、この秋ノ山である。

秋ノ山

〈城南宮〉

※薩摩藩の主力部隊が布陣した城南宮西門の鳥居。この参道を右手に進むと本殿(下)に出る。

反対(止まれと書かれた道)が旧小枝橋に行く旧鳥羽街道への路(突き当りが小枝橋に出る)

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鳥居から拝殿を望む。鳥居を潜り、左手に「鳥羽伏見の戦跡」の説明板があり、神宛である「春の山」の庭園、平安の庭へと続き、城南離宮の庭、桃山の庭、室町の庭へと続く。

城南宮

城南宮

〈伏見奉行所跡〉〈伏見の戦い〉

薩長も既に十二月末には御香宮を中心に「安楽寿院」などに駐屯していた。更に土佐藩も二日には伏見に出兵していた。

薩摩藩は、御香宮近くの「龍雲寺」の高台に警備していた彦根藩と戦うことなくして占拠し、砲台を築き、奉行所に照準を合わせていた。彦根藩は徳川幕府の重臣の藩ながら、いとも簡単に西軍に降りてしまったのである。

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一月三日(1月27日)鳥羽方面の砲声を聞いた御香宮に陣営していた薩摩藩の四斤山砲がいきなり奉行所へ撃ち出された。午後四時~五時であった。奉行所の新選組から砲で反撃し、一弾が薩摩藩営に着弾したという。奉行所から御香宮まで約300m位の距離である。激しい砲撃戦となった。高台に陣営する西軍にとっては、見下す伏見奉行所への攻撃は絶好の地であったという。

一方、東本願寺別院に布陣していた会津藩も開戦と共に繰り出し、市中に浸出してくる薩摩藩兵と戦いとなった。激しい銃撃の中をかい潜り、民家に潜む西軍に斬り込もうとするが、雨のように降り注ぐ銃撃に接近が困難であった。

安楽寿院

伏見奉行所跡

戊辰戦記絵巻物

戊辰戦記絵巻物

慶応四年一月三日(1868年1月27日)淀城下を出立した会津藩大砲隊、別撰隊ら八百名は伏見に向かい、新選組と合流すると奉行所と東本願寺伏見別院に布陣した。

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伏見奉行所の警備は表御門を会津藩、南北の門を幕府陸軍、裏手の方は新選組と定め配備された。一月三日、薩摩藩の大砲が奉行所に打ちかけられ、裏の庭から新選組が放った大砲一発が西軍の陣営(御香宮の裏・善光寺)に打ち込まれた。

しかし、薩摩藩はさらに奉行所へアームストロング砲を打ち込む。奉行所が炎上する。夕闇迫る中、東軍兵士をシルエットのように浮かび上がらせ、砲撃の的となる。会津藩大砲組頭中沢常左衛門は配下と共に白刃をかざして白兵戦を展開、新選組二番隊永倉新八も隊士と共にそれに続く。住民が避難した民家に潜伏している薩摩兵は突進してくる会津兵・新選組に銃撃を浴びせる。ついに中沢は討死にし多くの死傷者を残して撤退せざるを得なかった。

東本願寺

「角三楼」では西軍に炊き出しを出し放火を逃れられたと伝わっている。

この日の戦いで伏見の街の南半分が燃えたという。

伏見

鳥羽方面の砲声が響くと、すかさず西軍は伏見奉行所へ砲撃を開始した。「御香宮」を中心に布陣していた薩長は(文久三年(1868年)七月二日(8月13日)にイギリスと戦い、長州も下関で外国艦隊との闘いを経験しており、早くから洋式の軍制・軍備を取り入れ訓練してきている)その最新式の洋式の砲銃を駆使して戦う。一方幕軍も既にフランスから最新式の軍備を整えて、歩兵隊、伝習隊らが攻撃する。しかし、伏見方面はそれ程洋式化されていない会津藩、新選組が中心で戦いを展開しいた。新選組らは銃撃の下をかいくぐり、斬り込みをかけようとするが、激しい銃撃に白兵戦ができない。西軍は住民が避難した民家に潜伏し射撃する。会津藩新選組は多くの死傷者を出した。さらに伏見奉行所も砲弾に火災を起こし、夕闇迫る中に赤々と燃える火の前に戦う姿は、薩摩の射撃の的になりやすい状況となり、鳥羽方面へと退かざるを得なかった。

鳥羽伏見

〈御香宮〉

御香宮には薩摩藩を主力に長州藩兵が陣を張り、裏の高所に大砲を備え、銃は最新式で防備していた。

一方、旧幕軍は伏見奉行所表門に会津、南北の門は伝習隊、裏手は新選組と定め守備。

夕方、鳥羽方面の砲音に薩軍は砲撃を開始、奉行所に焼玉が落ち破裂した。一方、旧幕軍は奉行所の裏庭から大砲を打ち、御香宮に着弾する。銃器に優る西軍の攻撃に刃槍の多い旧幕軍は中々前進できず死者が増えた。

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薩摩藩は砲五門を据えていたという。

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伏見奉行所の裏門を守備していた新選組は「御香宮」の背後に回り西軍の陣営に斬り込もうと北進する。薩摩兵と衝突、白兵戦を展開するが薩摩の銃撃隊の乱射乱撃に先陣は倒れていく。それでも勇を振って抗戦、闇が迫る中、戦闘をするが利あらずついに撤退する。

御香宮

※境内から正面の山門を望む。

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)というが、通称「ごこうぐう」ともいわれ、伏見一帯の産土神として古くから崇められてきたという。貞鑑四年(862年)境内から香りの良い清泉が湧き出したことから「御香宮」と名付けられたという。

御香宮

〈御香宮〉〈明治維新伏見の戦跡碑〉

※拝殿横にある碑

1969年3月に訪ねた時には無かったものである。(説明版は)

御香宮

〈御香宮の神木〉

〈明治維新伏見の戦跡〉の説明文(上記記載の画像)

慶応三年十二月九日、王政復古が渙発せられや京洛の内外は物情騒然として朝幕の間に一触即発の険悪な空気が漲った。ところが七日の明方、当社の表門に徳川陣営と書いた大きな木札が揚げられた。祠官三木善郷は早速社人を遣して御所へ注進すると、翌日薩摩藩の吉井孝助(後の宮内大臣吉井友美、歌人吉井勇の祖父)が来て、この札を外し、ここに部隊を置いた。やがて年が明けて慶応四年正月二日徳川慶喜は大軍を率いて大阪より上洛せんとし、その先鋒は翌三日の午後伏見京橋に着いた。そこでこれを阻止せんとする薩摩藩との間に小ぜり合いが起こった。その折しも鳥羽方面から砲声が聞こえてきたので、これをきっかけに当社の東側台地に砲兵陣地を布いていた大山弥助(後の元帥大山巌)の指揮により御香宮と大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所(現在桃陵団地)の幕府に対し砲撃を開始した。これに対し土方歳三の率いる新選組は砲撃の火蓋を切って応戦し、一方、久保田備中守の率いる伝習隊は官軍前衛部隊を攻撃し、奇効を奏し官軍を墨染まで撃退した。しかし翌四日軍事総裁に任じられた仁和寺宮嘉彰親王は、錦の御旗を翻して陣頭に立たれたので官軍の士気大いに振るい、そのため幕軍は淀に敗退した。一方鳥羽方面の官軍も一時苦戦に陥ったが錦の御旗に士気を盛り返し幕軍を淀から更に橋本に撃退し、遂に幕軍は大阪に敗走した。かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進むか進まぬかはこの一戦にあったのである。この意味において鳥羽伏見の戦は我が国史上、否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。

(当時の内閣総理大臣 佐藤栄作 書 と記されている)

嘉彰親王

〈伏見・薩摩屋敷跡〉

※正面が薩摩藩邸跡

※坂本龍馬が寺田屋に居た時、幕府補足にきた時短筒をうち手の指を動かしながら、この橋の下まで逃げてきて薩摩藩士に助けられたという。

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会津藩・大砲奉行白井五郎太夫率いる隊は、薩摩の攻撃をかいくぐって薩摩藩邸に接近し砲撃後突入し火を放ち、そのまま竹田街道を京を目指して北上する。しかし、続く隊がなく孤立を避けるため鳥羽方面へ転進して友軍と合流して戦う。日没が迫り、翌日の戦いに向け宿陣する。この日唯一、京へもう一歩の所まで進軍したのは、この大砲隊だけであった。後続の隊が続いていれば、また違った戦いが展開していたかもしれなかったのだが・・・。

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薩摩藩陣営の御香宮に潜入していた新選組隊士小幡三郎は戦いが始まると脱出し会津藩砲兵隊長の白井五郎太夫の下に届し、この伏見薩摩藩邸に火を放ったという。

また、この日大阪の薩摩藩邸も会津藩によって寅の刻(午後3時~5時)放火されている。

伏見薩摩屋敷跡

〈桃山城周辺から龍雲寺を望む〉

前方が(右の林の中)龍雲寺への山門入口辺り。

1969年3月23日撮影

桃山城

〈桃山城〉

桃山城

鳥羽方面で戦った幕軍主力部隊、会津藩らは、下鳥羽に急遽造設した陣地に退いて野営する。一方、伏見方面の会津藩主力部隊、桑名藩、新選組は淀方面に退いて陣営した。負傷者は大阪へ送られていた。

一方、西軍の両陣営も上鳥羽、伏見に陣営する。

夕方迫る中で始まった「鳥羽伏見の戦い」は、西軍の有利なうちに深夜近くまで戦いが続いたが、一日目がすぎていった。

鳥羽伏見の戦いの真実

鳥羽・伏見の戦い二日目

薩摩藩屋敷

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