鳥羽・伏見の戦い二日目

〈二日目の戦い〉
二日目の戦いは暁天、夜明けと共に野営した幕軍の攻撃から始まった。幕府歩兵奉行の佐久間近江守が率いる伝習隊は最新式の銃を駆使し奮戦する。佐久間は白刃を振って馬上で指揮をとり、薩摩が守備する小枝橋陣営を粉砕、一時占拠するほどの戦いであったが、銃弾に当たり後方に退いた。指揮官を失った幕軍は次第に後退する。昼頃までは有利な展開をしたという。
一方、伏見方面でも善戦するが兵力の差が表れ、やはり昼頃、伏見を奪還できずに退いた。この方面の西軍は鳥羽方面へと進んでいく。
鳥羽方面の幕軍は「富ノ森」へ陣地を急造し反撃態勢を整えようとするが、増援を得た薩摩藩が占領する。しかし、幕軍は再び戦線を整備し攻撃を開始、富ノ森の西軍を撃退し陣地を奪還している。
西軍大総督府はこの日、征夷大将軍に仁和寺宮を任命し秘かに西郷らが作らせた錦の御旗を下賜し、京の東寺へと出陣させた。それを知った土佐藩は出陣し、伏見方面で幕軍へ攻撃を開始したのである。朝廷に於いても、この戦いは薩長が起こしたものと徳川慶喜を擁護する藩主もいたが、錦の御旗の登場に次第に協力することになっていく。
幕軍、会津、桑名藩、新選組はこの日も果敢に勇敢に戦ったが、富ノ森では伏見から回った西軍の横撃に退き、淀城へ向かった。淀城で再び戦線を整え抗戦しようとするが、淀藩では既に秘かに西軍の使者の説得に戦いには参戦しないが、幕府の入城を拒否することに決していた。幕閣の一員の藩主を抱えながら江戸城に在中する藩主とは相談もせずに矢張り錦の御旗に弓を引くことは避けたのである。
淀城で大阪から増援を待ち、再び抗戦しようとしていた幕軍らは驚きと悔しさにも堅く城門を閉じた城に入れず野営となった。幕軍はまだ西軍に錦の御旗が翻っていたことを知らなかった。
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幕軍は淀城に入れず、城下に宿陣、翌日を迎えるのである。陣営を完全に立て直しを図ることは城に入れず出来なかった。
〈淀城址〉
一月四日(1月28日)前日の戦いで後退していた旧幕軍は反撃を開始。しかし、鳥羽方面では次々と薩摩藩兵など西軍は増派による戦力が強まり、午後二時頃幕軍は敗走、少し前の昼頃には伏見方面も劣勢となって退却するも、納所付近に戦場が移ると会津藩は白兵戦を行い勝利するが夕刻になり淀城へ入城し再陣容を立てようとするが、淀藩は城門を堅く閉じ入城を拒絶する。既に秘かに西軍の使者が入り説得西軍の一員となっていたのである。しかし戦いには参戦しない約束であったという。淀藩・稲葉家は文久三年(1863年)六月から翌年の元治元年四月まで京都所司代をつとめ、藩主・稲葉正邦は幕府老中に就任し江戸に居た。稲葉家は徳川家とは春日局っからの(徳川初期)深いつながりがある。譜代大名であったのだが留守を守る重臣たちは城が戦いに巻き込まれるのを恐れ門を閉じ拒否したのである。幕府軍は淀城を反撃の拠点にしようとしていたが傷つき披露する躰を城下で休め翌日ん戦いを迎えることとなった。
〈黒谷・会津本陣、薩摩藩の攻撃にあう〉〈金戒光明寺〉
一月四日(1月28日)朝廷は仁和寺宮嘉彰を征夷大将軍に任命する一方、薩摩藩へ黒谷金戒光明寺の会津本陣に警備する会津藩士を打ち払いするよう沙汰書を下していた。
「沙汰書」が下った薩摩藩は、午前十時頃鴨川の堤に砲を据え砲撃を開始した。この日は砲撃のみであったようだ。
一方会津藩は臨戦体制をとったが本陣を出ることはなかった。
五日は戦いがあったかどうか不明だが六日迄に薩摩藩より再び翌朝に侵略する旨の書類が届いた。
この間、いまだに薩長に恭順を示さぬ諸藩が在京していたのである。その辺の情勢を考えたのか、砲撃は四日の昼には終わり、薩長は諸藩への思惑を考え砲撃を止め、銃・刀の戦いを考えたものと思われる。
「鳥羽伏見の戦い」が有利に展開され薩摩藩は京に会津藩士が在住するのは目の上のコブとなり、六日夜会津本陣へ翌朝の攻撃の旨の書類を送った。会津藩士は「素より望む所」と返答を送った。
-◇-
一月七日(1月31日)早朝、薩摩藩が押し寄せてきた。会津藩士は決死の覚悟を持って迎え撃った。激戦、接戦となるも討死者も数多く出る。約百人の警備藩兵は死かばねをのり越えて奮戦した。僅か二十人となった会津藩士は血路を開き紀州・尾張藩邸に入り、護衛を受けながら紀州藩へ引き揚げている。大阪から撤退してきた同志と共に江戸に向かったものと思われる。
〈会津藩殉難者墓地〉〈黒谷金戒光明寺〉
旧幕軍、会津藩が鳥羽伏見の戦いから大阪城へ撤退するが、その前に京都に残る史跡を掲載しておく。
上 2004年4月17日撮影
下 1969年3月21-24日撮影
文久二年(1862年)十二月二十四日入洛以来、慶応四年一月三日(1月27日)の鳥羽伏見の戦いまでの約六年間、病いに倒れた者も居たと思われるが、市中取り締まり、浪士との出会いなどから、蛤御門の変などの戦いなど、数多くの人々の墓地である。
会津の地から遠く離れた京の街で逝った藩士たちである。
〈説明版〉
会津藩殉難者墓所
文久二年(幕末)国家多難の際に当たり会津藩主松平容保公が京都守護職の大任を拝命されて以来六年(元治・慶応)の長年月此処黒谷光明寺を本拠とし朝廷と幕府の間斡旋すると共に、洛内外の安寧秩序保持の為め誠心専念された。その間蛤御門の戦を始め慶応四年伏見、鳥羽、淀の戦に至るまで挙藩一致して大義に殉じた————————
容保公は当時塔頭西雲院東間一廟の地を会津墓地と定め其の間殉難した藩士の忠魂義屍をここに埋葬されたのである。就中伏見、鳥羽。淀等の戦に於ける会津藩殉難者の遺骸は無惨にも朝敵の汚名のもとに街塵に放擲され世人は後難を惧れて顧る者もなかった折、幕末の大侠客会津小鉄は容保公の知遇と其の忠誠に感じ、あらゆる迫害に動ぜず数か月に亘り—————-
当山に合葬したという美挙がある
昭和三十二年十二月十八日
〈埋骨所〉
〈慶応之役鳥羽伏見淀会津藩殉難者の碑〉
高さ2メートル余の碑で鳥羽伏見の戦いにおける会津藩戦死者115人の名前が刻まれている
〈会津藩士墓地〉〈金戒光明寺塔頭西雲院墓地内〉
墓碑総数二百五十基余りという。
1969年3月22日撮影
2004年4月17日撮影
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