〈鳥羽・伏見の戦い三日目〉

橋本の戦い会津戊辰戦争(壱-三)

鳥羽・伏見の戦い二日目

〈鳥羽・伏見の戦い三日目〉

〈三日目の戦い〉

三日目
会津松平家譜
四日、淀城下で宿陣した東軍は、早朝、鳥羽街道方面は「富ノ森」に陣地を構築、伏見方面では宇治川の堤防に陣営した。この日、鳥羽・伏見方面で殆んど同時刻くらいにに始まった。
「富ノ森」では銃砲の激戦が展開された。会津兵は機をみて槍を手に西軍への突撃を敢行、凄まじい白兵戦を行っている。正午ころ西軍は銃撃隊を先頭に東軍の陣地へ総攻撃をかけた。砲弾を散々撃ち込んだ挙句、硝煙の中銃撃しながら突き進んでいった。
一方、会津藩佐川官兵衛率いる「別撰隊」さらに「遊撃隊」土方歳三が率いる新選組が中心で守備体制をとっていた。こちらも大激戦が展開されるが、所持する銃砲の差が次第に表れ、やはり昼頃淀城めざして退くことになる。
淀城は相変わらず、譜代藩でありながら城門を堅く閉し、東軍への応援、入城を拒否していた。東軍にとって二日(1月26日)以降、豹変した淀城の裏切りが一番こたえたのかもしれない。淀城下を撤退する時、街に放火している。
三日目の戦い

〈淀千両松跡=八番楳木〉〈戊辰戦・激戦地の跡〉

2004年4月16日撮影

淀千両松跡

〈戊辰役東軍戦死者埋骨地〉

※昭和45年(1970年)に新たに慰霊碑建立時、供養をしたのは妙教寺の住職である。
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一月五日(1月29日)の戦いは富ノ森と千両松で行われた。富ノ森では会津藩の槍隊が奮戦するも、大砲隊の白井五郎太夫ら戦死者も続出した。千両松では会津・桑名両藩の砲撃と槍隊の白兵戦によって薩長を退却させるが、西軍の増援部隊の反撃を受け、富ノ森の兵と共に橋本方面へ退いた。
戊辰役東軍戦死者埋骨地

〈慰霊碑〉

〈碑文〉
(左)幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない。それぞれ日本人同族の争いでもあり、いづれが正しいと信じたるままにそれぞれの道へと己等の誠を尽した。然るに流れ行く一瞬の時により、或る者は官軍となり、或いは幕軍となって、士道に殉じたので有ります。ここに百年の歳月を関じ、その縁此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対し慰霊碑の建つるを見る。在天の魂以って冥
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(右)慶応四年戊辰正月、伏見鳥羽の戦いに敗れ、ここ淀堤千両松に布陣し、薩摩長州の西軍と激戦を交わし、悲命に斃れた会津桑名の藩士及び新選組並に京都所司代見廻組の隊士の霊に捧ぐ。
慰霊碑

〈宇治川〉

千両松堤から伏見方面を望む。

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昔(戊辰時)堤があった所。千両松堤である。

千両松堤

〈愛宕茶屋〉〈見廻組の激戦の地〉

愛宕茶屋付近では、特に京都見廻組(会津藩士佐々木只三郎)が激戦を展開している。激しい銃撃をかいくぐり、白刃を振って白兵戦をしている。
愛宕茶屋
この愛宕茶屋付近は、分祠された愛宕神社の祠が建ち、桂川の渡し船場と茶屋があったといわれる。
幕府歩兵隊と桑名藩兵を中心とする幕軍と、薩・長の西軍がこの地で激戦を展開した所である。
最新洋式で武装された幕軍歩兵隊である。勇敢な桑名藩と共に「富ノ森」で激戦を展開するが「錦旗」が立ったことに、それまで日和見的立場をとっていた京の諸藩も出兵に応じ始め、更に薩摩長州藩からも増援を送り、頑強に反撃する東軍に総攻撃を開始、退く東軍も愛宕茶屋、納所ととどまって激しく反撃を繰り返すがついに淀城下に撤退する。一方「千両松」で奮戦する東軍も増援された西軍に押され始め多くの負傷・戦死者を出して淀城下に撤退する。
淀城下撤退

〈悲願寺=戊辰役東軍戦死者埋骨地〉〈桑名藩ら東軍の奮戦の地〉

藩を挙げて軍備・軍制改革・強化をしてきた薩摩・長州・土佐藩中心の西軍。ほぼ互角の装備の幕軍と旧式装備・刀槍主体の東軍では数では多くを上回っていたが、兵器の差が日増しに歴然とする中、更に「錦旗」によって士気高まる西軍との戦いは、激戦を展開するも次第に撤退に次ぐ撤退となっていった。
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この日、西軍の前線陣地に「錦旗」が立てられたという。幕軍と共に戦っていた諸藩士の中にはそれをみて戦意をなくし、藩が「朝敵」の賊となるとばかりに脱け出していったという。幕軍・東軍はあくまでも「朝廷」軍といっても「薩長」の私怨ととらえていた。
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「悲願寺」周辺は主に桑名藩が激戦を展開している。会津藩主松平容保の実弟として「京都所司代」を務めた桑名藩主松平定敬の藩士として勇敢に戦っている。
悲願寺

〈妙教寺=旧淀城跡〉〈戊辰之役東軍戦死者之碑〉

淀城に迫ってきた西軍と東軍の砲銃戦は凄まじいものであった。丁度中間地点に存在する「妙教寺」には砲弾、銃弾が住きかったという。
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「戊辰之役」の弾は、当時幕府軍軍艦奉行、榎本武揚の書によるものという。
妙教寺

〈本堂〉〈鐘楼〉

妙教寺

※本堂の右側(外側)

砲弾が飛び込んだ所
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※本堂の中
妙教寺
※本堂の中の左手にある柱を砲弾が貫通する。
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一月四日(1月28日)の戦いで本堂の壁を突き破った砲弾は柱を貫通した。
当時の住職十六世目祥上人は、戦いの恐ろしさを後世に伝えようとして、柱をえぐった弾痕に取り外しできる木片を作り裏面に戦況を刻み込んだという。
妙教寺

※本堂に打ち込まれた砲・銃弾

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西軍と旧幕軍の戦闘の中間に位置する妙教寺は大きな被害を受けた。砲弾が数限りなく飛来したという。当時の住職16世日祥上人は、本堂の丸柱をえぐった弾痕に戦況を記した木片を取り付けたという。
墓地には弾痕をとどめた墓碑も数多くあったと伝わっている。
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この日、西軍は尾張藩に「二条城」の接収を命じた。守備していた水戸藩士らは退去する。数日後、西郷隆盛は二条城にある「葵の紋」をすべて「菊の紋」に代えさせている。
妙教寺
※豊臣時代の諸藩の夫人らの位牌が東西に分けられ供養されてある
妙教寺

〈妙教寺・墓地〉〈田辺治之助の墓〉

妙教寺

〈法伝寺〉

法伝寺

〈戊辰東軍戦死の碑〉〈法伝寺〉

山門の左側に建つ

法伝寺

八幡・橋本の戦い

激戦の最中に津藩の裏切り攻撃によって奮戦する幕軍も、ついに大阪への撤退となっていく。
橋本の戦い
橋本宿への西軍の侵入により、楠葉砲台に集結していた幕軍・東軍は至近距離からの津藩の砲撃を横合いから受け、大混乱となったが津藩への砲撃も開始するが朝からの砲撃に砲弾も撃ち尽くし、大阪へと撤退した。四・五日の戦いで淀藩の裏切り、この日の津藩の寝返りに大軍の幕軍もついに大阪城に戻り、陥落不能な(難攻不落の)大阪城での一戦を期しての撤退となった。
橋本砲台

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