〈鳥羽・伏見の戦い四日目〉

幕府軍撤退会津戊辰戦争(壱-三)

〈鳥羽・伏見の戦い三日目〉

鳥羽・伏見の戦い四日目

 

〈四日目の戦い〉

淀城での一戦が出来なかった幕軍・東軍は「大阪城」への関門となる「橋本」に最後の砦として陣地を構築し、大阪からの援軍を待っていた。
鳥羽伏見音戦い
一月六日(1月30日)幕軍は鳥羽伏見に分かれていた会津・桑名・新選組らと共に大阪への最後の関門口となる八幡・橋本に集結し布陣する。橋本宿の脇にそびえる八幡山にも兵を配置し、万全の態勢を敷いた。また大阪からは会津砲兵隊(新任の山川大蔵隊長)も来援するという。淀川の対岸には津藩(藤堂)も砲台を築いて応援する。幕府は本営「久修園院」に置いた。新選組を橋本宿入口に配置する。
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戦いは六ッ半(午前七時頃)西軍が橋本宿めざして攻撃する。激戦となる。一進一退の攻防が五時間にも及んでいた正午頃、突然、対岸に守備する津藩が高浜砲台から幕軍に砲撃を開始した。前日に西軍の使者の説得に、また「錦旗」の出現に寝返ってしまったのである。「楠葉砲台」周辺に密集して戦っていた幕軍は大混乱となってしまった。
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一方、大阪城には「戦況」の報告もあった。また「錦旗」の出現の報も届いたのだろう。幕臣の重鎮である永井玄蕃が徳川慶喜の命により幕軍撤退を伝えにきている。
幕府軍撤退

〈退耕庵〉〈戊辰役殉難士菩提所〉

退耕庵
弘源寺

〈幕軍・東軍、大阪城へ撤退〉

一月六日(1月30日)午前七時頃から開始された戦いは五時間にも及ぶものとなっていたが、昼頃突然、味方であった津藩の寝返りによる砲撃により大阪城へ撤退となった幕軍。徳川慶喜の使者として橋本へ着陣した幕閣(大目付)永井尚志の撤退命令もあった。会津藩砲兵隊が到着する前のことであった。
多くの死傷者も出しながら奮戦を続けた幕府陸軍歩兵隊、伝習隊、会津藩、幕臣京都見廻組、桑名藩士、新選組らは疲労と悔しさ等々の入り混じった面持ちでの撤退であったと想像できる。難攻不落といわれた大阪城での一戦をの思いを胸に秘め、また大阪・天保山沖に停泊中の、当時日本随一の海軍があり、共に西軍への攻撃を図れば勝利すると信じていたのである。大阪城には未だ出陣していない隊も温存していた。しかし「錦旗」の登場に何よりも戦意を高揚しなければならない徳川慶喜の心には、その気配があった。更に諸藩の中にもその空気が漂い始めていた様子がみられた。
一月三日(1月27日)に開戦された「鳥羽伏見」の戦いは東軍の敗北で終わった。そして西軍には「錦旗」がなびき、その意気は高揚していた。
大阪城へ撤退

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