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〈徳川慶喜、江戸に入る〉

絵図会津戊辰戦争(弐-一)

〈会津藩、大阪を撤退〉

〈徳川慶喜、江戸に入る〉

 

 

〈徳川慶喜、大阪城を脱け出し江戸へ〉

鳥羽伏見の戦いに敗れた旧幕軍は、大阪城に再度戦いの準備を整え、天保山沖に停泊中の幕艦と呼応し戦うことが評議で定まったその夜、徳川慶喜は松平容保、松平定敬、老中酒井忠惇、
板倉勝静らを強引に伴って大阪城から脱け出す。未だに大阪に帰らず戦っている会津藩士らを置いて将軍に従わせられて江戸に戻る松平容保らの胸中は計り知れない思いが去来したと思われる
一月六日(1月30日)夜(午後十時頃)大阪城を脱け出した慶喜らは、大阪・舟宿八軒屋より小舟で天保山沖をめざすが西北の烈しい風に幕艦開陽丸に近付けず、米国艦に助けられ一泊する。翌七日(1月31日)午前四時頃、幕艦開陽丸に移乗し宿泊。この日会津藩砲兵隊はやっと大阪市中に帰陣している。一月八日(2月1日)開陽丸、江戸に向けて出航する。残された東軍は将軍不在で戦うことは不可能と「解兵」と決定し、諸藩士はそれぞれ帰国を開始する。会津藩は新選組らと船(幕艦富士山丸)で天保山沖を出航する者、陸路を紀州に向かう者との二手に分かれて江戸をめざした。七日に大阪城に・溜間格の吉田藩主松平信吉、大阪城代の長岡藩主牧野貞直らの一行と共に会津藩家老神保修理は陸路を紀州に向かっていた。まさか、藩主が大阪城から脱け出すとは考えてもいず、直ぐに天保山沖へむかおうとしたが間に合わなかったらしい。一月十一日(2月4日)慶喜らを乗せた開陽丸が品川沖に停泊する。そして一月十二日(2月5日)品川から馬で江戸城に入った。
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これより暫く、「会津藩戊辰戦争日誌」に沿っていくことにする。
慶喜

〈松平容保ら、官位剥奪、領地没収の「命」下る〉

一月八日(2月1日)旧幕艦「開陽丸」は徳川慶喜、松平容保、松平定敬、板倉勝静らを乗せて、大阪天保山沖を江戸に向けて出航した。三日間の海路であった。十日(2月3日)艦中にいて知る由もなかったと思われるが、西軍は「朝廷」の名の下に「官位剥奪」「領地没収」の「命」を旧幕府の重臣に下した。「官位」は別として「領地」は実質的には攻略しなければならず、旧幕府の「大阪」「京都」「西国」の範囲にとどまったものと思われる。
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「鳥羽伏見の戦い」に勝利したといっても、西軍には「軍資金」「兵力」がそれ程豊富にあるわけではなかったのである。しかし、徳川慶喜に強引に連行された諸藩主の領地は、やがて西国(高松、松山)などは西軍に対して「恭順」せざるを得なくなり、「軍資金」「兵力」に協力をせざるを得ない成り行きとなっていくのである。
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三日間の海路に於いて「何を思い」「何を語らい」あったのだろうか。半ば強引的連行ならば、今後の進む路など徳川慶喜は示すことなどなかったのであろう。諸藩主もまた、前線(戦線)離脱、藩士たちを置き去りにした無念の悔いに思いを馳せていたかも知れない。船酔いもあったかも知れないが、互いに室内からあまり出ることなくすごしていたのかも知れない。
容保

〈開陽丸など江戸湾に入る〉

一月十一日(2月4日)江戸湾品川沖に停泊した徳川慶喜、松平容保らは時刻が遅かったのか、上陸せず一泊した。しかし、江戸城へは「開陽丸」から急使を出立させたと思われる。開陽丸には艦長の榎本は乗船していないが、副艦長(軍艦役=士官長席)香山道太郎が指揮していたのである。また「沢太郎左衛門」もいたのである。

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一方、会津藩士石沢甚太郎・篠田岩蔵は大阪城より急行し、十一日、江戸・和田倉門内会津藩屋敷に到着し、一連の動勢を報告、松平容保の帰還を伝えた。知らせを受けた屋敷内は驚愕と対応に騒然となったものと推察される。

 

開陽丸

芝口南西久保愛宕下之図

絵図

芝三田二本榎高輪辺図

絵図

〈品川へ上陸、江戸城内に入る〉

一月十二日(2月5日)徳川慶喜、松平容保らは品川に上陸し「海軍所」に入った。多分、人目をしのぶため、午前三時頃であったろう。暁七ツ(午前四時頃)には江戸城登城前の海軍奉行・勝海舟は使者に、直ちに「海軍所」へ出立するよう伝えられている。勝は直ちに向かっている。海軍所に入った勝は、慶喜の「東帰」の事を容保、定敬藩主に尋ねても何も答えてくれなかったといっている。漸く備前松山藩主(幕閣老中)板倉勝静に「顛末」を聞くことができたという。

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慶喜らはそれぞれ単騎、馬に乗って勝海舟らを伴い、江戸城に向けて出立した。「四ツ時=午前10時頃」前には江戸城に入った。この時刻、市中はすでに市民が往来していたと思われるが、早馬に乗って駆け抜けていく光景を目にしていると思うのだが、記録がないので残念である。

品川へ上陸

〈松平容保、和田倉門内の藩邸に入る〉

「東帰」した藩主の報を聞いた各藩の江戸屋敷は驚きと共にその対応に大変であったものと想像がつく。江戸城に登城し各藩主と面説もあったと思われるが、共に顔は青ざめ、焦燥と怒らだちと疲労した藩主を見、言葉は少なかったろう。

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どのくらい「江戸城」にいたのか定かではないが、城内とて「突然の帰城」に騒然としていたことと察する。「鳥羽伏見の戦い」後「心辛」が続き、まず心身共に癒すことが先決であったろう。少なくとも、次の登城日を決め、それぞれが藩邸に戻ったと考えたい。が、数日間は城内にとどまった事も考えられる。

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一方、海軍奉行勝海舟は幕閣(江戸在住の者)との面談、改めて前将軍慶喜との拝謁もあったろうし、今後の進路にどう対応していくか思いめぐらす日々であったと思われる。

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江戸在住の重臣らは「将軍が京に於いて恥かしめられたらしい」くらいの認識でしかなかったとも伝えられている。

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正面の橋が会津藩上屋敷へ続く「和田倉門橋」である。正面のビル辺りは幕府・歩兵屯所跡である。

和田倉門橋

御曲輪内大名小路絵図

絵図

絵図

〈江戸城〉〈二重橋・大手橋〉

江戸城に入った慶喜は風呂に入ろうとするが大奥では逃げるように帰城した慶喜を心よく思わず、中々用意しなかったという。

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慶喜が突然帰城した江戸城は騒然としていたことだろう。強引に随行させられた幕閣老中の一同も「評議」を続け、今後の対策等に多忙を極めたかも知れない。各藩邸に戻ったとしても、連日の登城となるだろうし、諸藩の重臣とて「事情の把握」西軍の動勢、それにまして残してきた藩士の動向も気が気ではなかったと思われる。旧幕軍の帰途も定かではない状況であったのである。

江戸城

神保修理一行

一月七日(1月31日)大阪城内に於いて会津藩士神保修理は、藩主松平容保の東帰を知り、大阪城代の笠間藩主牧野貞直の一行と共に陸路を急ぎ江戸をめざして出立、一月十五日(2月8日)江戸に到着した。神保修理は浅羽忠之助と共に「孝明天皇」下賜の「御宸翰」を持ち「上屋敷」に入るが容保が「城中」に居るとの事に登城し「二の丸」に於いて拝謁し宸翰を届けた。

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「馬場先壕」から会津藩上屋敷方面を望む。

〈会津藩負傷者、江戸に着く〉〈松平容保胸中を語る〉

会津藩上屋敷

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