〈徳川慶喜、秘かに大阪城を脱け出す〉

幕末維新大戦争会津戊辰戦争(壱-三)

〈鳥羽・伏見の戦い四日目〉

〈徳川慶喜、秘かに大阪城を脱け出す〉

 

〈一月六日大阪城での軍議〉

一月六日(1月30日)鳥羽伏見の戦いに敗れた旧幕軍・会津藩兵らは大阪城を本営に再戦を誓って大阪城へ撤退した。城内は負傷者も多かったが未だ戦意失わない兵が充満していた。大広間では徳川慶喜の御前で松平容保、松平定敬、板倉勝静、永井玄蕃らを含め、新選組近藤勇、土方歳三、諸藩の重臣らが軍議を開いていた。大広間は主戦論で熱気がみなぎっていた。慶喜は一月五日(1月29日)に戦況視察に出した永井玄蕃の報告を受け「錦旗」が立つの状況に朝敵になるのを憂れいていた。しかし、殆どの者は朝廷は薩長が牛耳っており戦いはあくまでも薩長であると誰一人恭順は思っていなかった。慶喜はその熱気の大広間で「最後の一兵まで戦かう」と宣言する。軍議は終わった。未だ、橋本・八幡方面で戦かっていた会津藩兵は大阪城に戻っていなかった者もいた。

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松平容保は、慶喜の宣言に疑問を感じながらも御用部屋にて夕食をとった。慶喜の本心は不戦にあるのではないかと危惧しながら・・・。

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重臣の中には「慶喜公は東帰する」心づもりと感じていた者も多かったという。そんな空気に容保は「宣言した事は守るよう」念を押している。しかし、慶喜の態度に不安をいだいた容保は、藩士(小姓頭)神保修理にだけ、それらの事を告げてはいたのである。

 

大阪城大広間で宣言

〈旧幕軍、大阪城を撤退する〉

六日、午後十時頃、突然、松平容保は徳川慶喜より呼び出された。「東帰する、供せよ」との厳命が下されたのである。主戦論者の桑名藩藩主松平定敬も同様であったという。
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容保は引き止めようと説得するも慶喜は東帰することを変えなかった。藩士に告げるいとまもなく、大阪城を出ることになってしまっていた。
大阪城撤退
四日間に亘る戦いを多くの死傷者を出しながらも決死の戦いをしてきた藩士に一言も告げずに城を脱け出す容保の心境は筆舌に尽せぬ胸中であったものと思われる。
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慶喜は主戦論者の容保らを残していけば戦いは続けられることを知っており、その主な者を連れ出せば、この戦いは続くまいと考えていた。城を脱け出す時、守衛にとがめられると「小姓の交代である」と言って城外に出た。
大阪城撤退

鳥羽伏見戦争の歴史的意味と維新への影響

幕末維新大戦争

八軒屋船着場跡

一月六日(1月30日)夜亥の刻(午後十時頃)大阪城を脱け、八軒屋に出、そこから小舟で天保山沖へ出た。この時、幕府軍艦は停泊していた。旗艦は開陽丸で当時、日本で最大の最新鋭の軍艦であった。
八軒屋船着き場

天保山跡

徳川慶喜の一行は、天保山より小舟で沖に漕ぎ出し、暗く波浪高く、旧幕軍艦が分からず(一月六日=1月30日)アメリカ船に乗り込み一夜を明かし、七日に旧幕艦・開陽丸に移乗した。八日に(2月1日)江戸に向け出発した。
一方、旧幕軍、会津藩らが徳川慶喜らの不在を知ったのは七日であった。大阪城内は騒然となったが、大将のいない戦いは出来ないと旧幕軍は解散状況となり、諸藩士は帰国の途につき始め、主戦を唱える会津・桑名の藩士も裁可を仰ぐ藩主不在のため、大阪城を明け渡すほかなく、江戸へ向かうしかなかった。
天保山

開陽丸

開陽丸

 

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