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徳川慶喜恭順へ

江戸城大広間会津戊辰戦争(弐-一)

〈松平容保「東帰」を謝罪し家督を譲る〉

徳川慶喜恭順へ

〈江戸城評議、紛糾〉

一月十二日(2月5日)に徳川慶喜が江戸城に帰城してから、城内に於ける「大評定」は数日続けられていたが「主戦論」と「恭順派」が対立し中々まとまらない情勢が続いていた。

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一月十六日(2月9日)の松平容保の登城の日も「大評定」が行われた。しかし、議論は噛み合わないまま、時が過ぎるばかりであったようだ。容保は固い決心の下に評定に列席しているが、慶喜は黙して語らずのようであったという。

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十七日、城内で「恭順派」の須坂藩主、若年寄は自刃をもって主戦論者の説得を図るも、その効はなかったという。老中・若年寄の重臣らは取りまとめに自信を失っていたという。

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旧幕府軍事総裁となった勝海舟は慶喜に「和戦両策」を述べた上で諸外国の動勢・情勢を説き、慶喜の決意を聞いたと伝わる。「水戸学」の水戸藩生まれの慶喜である。「朝廷」から「逆賊」と言われるのは避けたい心が強かったという。勝海舟は慶喜の決意(心の内)を聞き「恭順」をすすめたという。このことはもう少し後のことであるが・・・。

〈江戸城・田安門〉1994年4月6日撮影

江戸城田安門

〈江戸城・馬場跡〉

〈説明文〉〈特別史跡江戸城跡〉

江戸城は長禄元年(1457年)に太田道灌によって創築されたが天正十八年(1590年)に北条氏が滅亡し徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。明治維新後、江戸城は皇居となり、昭和二十四年(1969年)に西の丸下および現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され昭和四十四年(1969年)からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。この江戸城は三百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模はわが国唯一のものであることから、昭和三十八年(1963年)五月三十日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。

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一月十六日の登城「大評定」の動勢は「主戦論」が占めていた。しかし、容保は慶喜に一抹の不安を持ちながらも「徳川家」のために力を尽くそうと決めた。

江戸城跡

〈慶喜、ついに「恭順」に決す〉

何度と繰り返されてきた「大評定」も、一月二十三日(2月6日)徳川慶喜は勝海舟を旧幕府の「全権者」に任命し「恭順」を伝えた。並みいる主戦論者は一瞬驚愕した。

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「主戦論」の戦略は、天下の剣「箱根」で西軍の侵軍を防ぎ、随一海軍力が無傷で日本一である。虚をついて大阪湾を占拠し、諸藩に「激」を飛ばし戦えば必ず勝利-であった。しかし、慶喜は「朝敵」を恐れ、薩摩・長州藩が牛耳る朝廷に「恭順」すると決めたのである。最後に席を立つ慶喜の足にすがり「もう一度考え直し」と強く迫った、当時幕府の頭脳といわれた勘定奉行小栗上野介を振り払って退席したという。

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主戦論者は松平容保、松平定敬、大鳥圭介(陸軍奉行)、榎本武揚(海軍奉行)、近藤勇(新選組)、老中板倉勝静等々のメンバーであった。「京都」「鳥羽伏見の戦い」「長州征討」などに一度も参戦していない譜代の旗本、重臣らは慶喜を擁立していたという。

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慶喜の「恭順」によって松平容保は「京」への上洛以来幕府のためを第一義に歩んできたのは、一体何のためだったのかと思ったことであったろう。

江戸城半蔵門2004年4月8日撮影

半蔵門

この頃、西軍は矢継ぎ早に、奥羽諸藩に「徳川慶喜の征討」「会津藩征討」の勅書(命令)を出していた。そんな動向を掴んでいた勝海舟は慶喜へも伝えていたものと思われる。

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当然、松平容保、松平定敬らも知っていた。しかし「薩長の勅命」と受け取っており「朝廷=天皇」に反対するつもりは一切考えていなかったのである。

新選組史録

新選組

新選組

新選組

将軍の大広間 図面公開

江戸城大広間

一月二十三日(2月16日)

一月二十三日(2月16日)江戸城に於いて「主戦」か「恭順」か大評定が行われていたが、会津藩は藩士荒川重の名をもって旧幕府に「一万両」の下賜を願い出ている。「鳥羽伏見の戦い」に於ける戦死者、治療、兵糧等々に莫大な費用がかかり、また「京都」時代に藩財政は逼迫する程のものであったため、旧幕府のために粉骨してきた会津藩に資金の下賜を願い出たものであろう。

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このことが「恭順」に決した慶喜にとって、徳川家のためとはいえ、主戦論の会津藩は「うとましく」なっていったと思われる。やがて旧幕府領・越後の「魚沼」などの領地を会津藩預かりとする通達が出されていくのである。つまり「手切れ金」のようなものである。

一月二十三日

一月二十六日(2月19日)

一月二十六日(2月19日)大阪から帰東する最後の砲兵隊を容保は今まで同様に「三田藩邸」に見舞った。慶喜の恭順に死を賭けて戦った藩士を見ると「恭順」に憤りを覚えたかも知れない。

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旧幕府は一月二十九日(2月22日)会津藩に対して越後国の蒲原・魚沼の両郡の内、十一万三千石余の領地を分けた。旧幕府にすれば主戦論の松平容保に「手切れ金」の意味があったのではないか。これまで旧幕府に「金」の借用を数回行っていた会津藩に対して、これが最後の資金調達ともとれるものである。

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二月になると会津藩は「帰国」を念頭に「武備」「戦略士」の「城接収」を願い出るようになっていく。

一月二十九日

〈会津藩、武器借用と白河城・棚倉城の接収の願い出す〉

会津藩は徳川慶喜の恭順により、いずれは西軍が会津侵攻をしてくる事を肌で感じていたと思われる。会津藩境に近い「白河城」は会津藩にとって喉元にあいくちを突きつけられるに等しい事であったのである。一方、「京都守護職」によって莫大な資金を使い、軍事的予算も乏しく、槍・刀の戦いではなくなってきている事は「鳥羽伏見の戦い」で充分に知らされていた。容保は例え「恭順」するにせよ、西軍の会津侵攻に指をくわえている訳にはいかない事も考え、武備不足は致命傷になりかねないのである。

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しかし、旧幕府から「二つの城」の接収については結局回答はなかった。

半蔵門

半蔵門

〈西軍、親征の詔勅を発令する〉

西軍は「鳥羽伏見の戦い」以降「奥羽諸藩」に矢継ぎ早に「徳川慶喜征討」「会津藩追討」を発していた。そして二月三日(2月25日)ついに旧幕軍への処分も発令したのである。この発令は慶喜にとっては、最も恐れる所であった。慶喜は日増しに「恭順・謹慎」への道へと突き進んでいくのである。

二月三日

二月四日(2月26日)

松平容保は一月二十日(2月15日)大阪より江戸に帰着した家老萱野権兵衛らを労ったが、いち早く萱野を国元へ送ったようである。容保が帰国する前にすでに若松城で政務を執っているからである。

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慶喜恭順となってからの江戸城の空気も勝海舟の全権の政務等々から、容保は徳川家のための献身も、もう泡沫であり、自らの進退も含め、会津藩の行く末を考えだしていた。二月四日(2月26日)病いを理由に藩主の座を慶喜の実弟・喜徳(養子となっている)に譲り隠退する。しかし、実際は実権は容保が握っていることには変わりがなかった。

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旧幕府の陸軍およそ二万人ともいわれていた兵士は健在であり、当時日本一といわれていた海軍艦も榎本武陽が抑えており、慶喜の恭順に不満を持つ者も多く存在していたのである。二月七日(2月29日)には、それらの兵士が江戸を脱する事件も起きてくるのである。

慶喜恭順決定後の容保動向

二月四日

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