〈浦賀奉行所跡〉

会津戊辰戦争(壱-一)

〈北米合衆国水士拍理上陸記念碑〉

〈浦賀奉行所跡〉

文政三年(1820年)約十年間にわたって会津藩など諸藩が幕府の命によって相模・房総の沿岸警備体制が縮小されて、相模沿岸は「浦賀奉行所」の管轄となった。戸田伊豆守(氏栄=うじよし)奉行は、黒船四隻が浦賀・鴨居村の沖に碇泊の「注進」に配下の中島三郎助と通詞(訳)堀遠之助をペリー艦隊の旗艦に差し向けた。乗船した中島三郎助は「用向きのいかんにかかわらず、直ちに長崎に回航するよう」に伝えた。

浦賀奉行所跡

ペリー提督は副官のコンティ大尉に応接させ〝提督は大統領の親書を将軍(大君)に手渡すために、江戸に近い浦賀に来たのだ〟と長崎回航を拒否したのである。翌日、「与力」香山栄左衛門が「浦賀の高官」という名目で、部下数十人を率いて訪ねた。ペリーは礼服着用の香山に対し、一応敬意を払って参謀長のアダムス大佐、艦長のブキャナン大佐が応接に当たったが、「長崎回航」の言に怒り、陸戦隊を率いて江戸城に進撃すると脅かしてきたのである。香山は、何とかなだめ「四日間」の猶予を得たのである。

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「江戸詰浦賀奉行・井戸石見守(弘道)」は浦賀の報告を受け、老中阿部正弘は、ペリー提督の異常な決心から、大統領の親書だけは受けることに決した。六月九日(七月十四日)「久里浜」に急造の「応接館」を建てて、ペリー提督一行の上陸を許可させ、江戸詰浦賀奉行・井戸石見守、浦賀奉行の戸田伊豆守らが迎え「接見」した。

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ペリーは制服着用し、武装水兵三百余人を従え、各艦から十二発の空砲を撃たせて「応接館」に繰り込んだという。ペリーは「大統領の親書二通」と、自らの「将軍宛の二通」の書簡を手渡し、式は終わった。

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ペリーの書簡は激しい言葉に満ち、恫喝に近い文書であったという。〝来春には一層、強大な艦隊(七隻)をもって江戸に来る〟とも書かれてあったという。

〈「日米和親条約」締結される〉

〈ペリー来航関連資料〉

浦賀奉行所
浦賀

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