山岡鉄舟と西郷隆盛会見
徳川慶喜謹慎の地宝台寺

〈山岡鉄舟〉
山岡鉄舟は、後に鳥羽伏見の戦いで、江戸へ逃げ帰った徳川慶喜の朝廷(西軍)が下した処分に関して、慶喜の意を持って西軍の大総督府へ使者として赴き、また上野の戦いでは彰義隊への説得など、勝海舟の下で活躍するが、浪士隊結成に於いては、取締役として京へ同行した。
-◇-
清河八郎とは幕臣として攘夷には違った気持ちであったが、剣術の同門として親交を深めていた。清川の話を義兄の講武所教授方の高橋謙三郎(泥舟)に話し松平主悦へと通じて清川の献策を幕臣松平主悦の献策として幕府への建言となっていった。
資料=新撰組事典
〈山岡鉄舟(鉄太郎)、西郷隆盛と談判〉
上野寛永寺に謹慎する徳川慶喜は、朝廷に恭順・謝罪の嘆願を天璋院・和宮・輪王寺宮に願うも、悉く西軍に却下されていたが、慶喜は最後の望みを護衛する高橋泥舟に赤心・赤誠の幕臣はいないか尋ねた。高橋は微禄ながら、義弟の山岡鉄舟を推したのである。山岡鉄舟は二月下旬、慶喜に拝謁し、大総督府西郷隆盛との直接の面談を依頼され、元薩摩藩士益満休之助を道案内として同行させ単身、駿河まで進軍していた。大総督府は東海道鎮撫総督府へ出立した。
山岡鉄舟と静岡
ふるさとの歴史 再発見パンフレット
西郷・山岡会見の地
鉄舟寺
鉄舟寺のしおり
徳川慶喜謹慎の地(宝台院)
徳川慶喜公屋敷跡
現・浮月楼
コメント