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信州鎮撫隊・梁田の戦い

梁田戦績図会津戊辰戦争(参-壱)

信州鎮撫隊、江戸-桶川宿-忍藩-羽生宿を経て梁田へ

信州鎮撫隊・梁田の戦い

 

〈梁田宿に宿陣〉〈本陣とした長福寺〉

三月八日(3月31日)隊を三分して羽生を出陣した「信州鎮撫隊」は梁田宿へ向かった。宿場に全軍が着陣したのは夜になったという。

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古屋は「長福寺」を本陣とした。境内には大砲、弾薬等々が持ち運ばれたという。午後十時頃古屋は名主に明朝出立を告げ「人馬」の触れを出した。

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歩兵他は酒に歌にの夜を過ごしたと伝わっている。

2004年7月9日撮影

長福寺

〈梁田の戦い〉

三月九日(4月1日)出陣用意や朝食の準備とごった返している時であった。西軍は羽生を出陣した古屋らの隊の動向を探知していた。梁田方面に向かったと知り挟撃する作戦と勘違いした西軍は機先を制してしまおうと、薩摩藩百余名(隊長河村興十郎)長州藩(隊長梨羽才吉)二十余名大垣藩四十余名(隊長長屋益之進)(総勢二百余名という)は熊谷を出陣し妻沼を経て秘かに利根川を渡り進み、夜明け前に到着し、二手に分かれ急襲をかけた。

梁田の戦い

梁田戦績図

梁田戦績図

〈長福寺本堂〉

信州鎮撫隊は警戒網として斥候(見張り)を置いていた。その兵が暗にまぎれてどこの隊か分からないが接近中と報せる。古屋らはまさか戦いを目的としているとは思わず、確認するため使者を出す。

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しかし、使者が届く前に濃霧に乗じて突進し銃撃を仕掛けてきたのである。

2004年7月9日撮影

長福寺本堂

古屋らの前軍(今井信郎が統率)は宿場の西端に進み防戦、後軍は宿場の後方より北方面に進み、西に回り西軍の一隊の左翼を衝いた。

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中軍は本陣前に砲を据え、砲撃を開始する。数からいけば鎮撫隊が優勢であった。激しい砲銃撃の反撃に西軍は色めき敗走する隊も出た。それを十数町(約一千メートル)追撃した。

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しかし、西軍に新たな援軍が駆けつけると立場は逆転する。

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激しい砲銃撃が今度は古屋らを襲ってきた。ついに退却となり、渡良瀬川の渡し場へと退き始める。西軍は西方の堤に砲を据え、猛射の砲撃を開始、鎮撫隊は渡し場よりさらに東方に退き激しい銃撃の中、渡河となった。戦死者も多数出た。「軍監柳田勝太郎」(会津藩士)戦死となった。

梁田の戦い

資料=梁田戦争(足利図書館)

梁田戦争(足利図書館)

〈弾痕の松〉

三月九日(4月1日)薩摩・長州・大垣の藩兵二百余名による攻撃の際に、宿の中田屋に砲弾が飛来し敷地内の黒松の木に突き刺さったという。中田屋の移転に伴って公民館脇に移された。「奉讃之碑」は左右二列に分けてあり、世界大戦の戦没者の慰霊の「拓魂社」を祭った内容。

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右側に「梁田戦争弾痕の松」戊辰戦争の緒戦であり有名な武将が多数参戦したことで戦史に高く評価されている。慶応四年三月九日の梁田戦争当時、梁田宿中山藤作氏方にあったこの松は、その幹に砲弾を受けておるものであるが大正七年頃中山家が移転されるに際し由緒ある松として梁田村に寄贈され小学校地に移植した。後に拓魂且内に移されていたが、ここに拓魂社をこの地に奉遷するに伴い、梁田戦争の数少ない遺跡の一つとして長く保存すべく三度ここに移されたものであると刻されている。

2004年7月9日撮影

弾痕の松

〈渡良瀬川河敷〉〈渡しがあった付近〉

堤防まで退却するが西軍の追撃がゆるむことなく、再び堤防に山門二門を据え、銃撃陣を伏せ押し寄せる西軍へ反撃を開始した。この時、差図役加藤惣兵衛が銃弾に斃れ十余名の討死を出した。砲兵頭田臥準之助、差図役河原精之進らも含め数十人が斃れた。

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戦況不利となり、負傷者七十五名をまず舟で渡し「田沼村」方面に向かわせ重傷者は悲しい事に皆、首を刎ね、形ばかりの埋葬をし舟では運べぬ大砲は川中に沈め、ようやく渡良瀬川を渡り、全軍「田沼村」をめざして退却した。西軍も多数の戦傷者を出し、これ以上の追撃はできなかった。

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梁田宿より撤退した衝鋒隊は梁田の渡し場を越えて田沼方面に向かった。渡良瀬川に大筒など(大砲もと伝わる)川中に捨てたと伝わる。

2004年7月9日撮影

渡良瀬川河敷

〈梁田の戦いに於ける足利藩の動き〉

足利藩はこの梁田の戦いに渡良瀬川畔まで出兵し警戒にあたったという。

(足利市立図書館蔵)「慶応四年の田崎草雲」下野新聞社刊・菊池卓著

(足利市立図書館蔵)「慶応四年の田崎草雲」下野新聞社刊・菊池卓著

資料=足利市史・第二巻

足利市史第二巻

〈明治戊辰梁田役・東軍戦死者追悼碑〉〈長福寺・境内〉

衝鋒隊士として、当時十五歳の内田萬次郎が戊辰戦争を戦い、大正十三年に建立した。裏面にその名が刻されてあった。

2004年7月9日撮影

長福寺境内

〈戦死塚〉(長福寺墓地内)

三月九日(4月1日)の二時間に及ぶ銃撃・砲撃の戦いに戦死した衝鋒隊士を梁田宿の村民によって渡良瀬川の河原に合葬され、戦死墓が建てられた。後に河川敷の工事となり、長福寺住職が改装し碑も移した。

当時、この戦いを目撃していた名主や村民の語りが資料として「小冊」となり、足利市立図書館に納書されているのを、少しコピーしたのだが(前掲)激しい戦いであったことが分かる。梁田宿近隣の村々にも多くの戦死者の遺体があったという。会津藩士・加藤惣左衛門もこの六十四人の戦死塚に埋葬されているのだろうか。

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負傷した副隊長前田兵衛(桃沢彦次郎=会津藩)は、会津若松までいっている。前載した資料には、桃沢彦次郎は会津若松で加入したとあるのは間違いと思われる。

長福寺墓地内戦死塚

〈説明文〉

〈梁田戦争戦死塚〉

慶応四年(1868年)三月九日未明のいわゆる梁田戦争に倒れた幕軍戦死者の墓である。

表面に戦死塚 裏面に慶応四戊辰年三月九日

戦死六十四人此地理 梁田宿

と行書をもって陰刻してある。梁田戦争の直後、村民の手により渡良瀬川河原に合葬し墓碑を建てたが、その後河流の変遷のため、明治四十三年(1910年)に星宮神社傍に碑を移し、遺骨は現在地に改葬、昭和六年(1931年)に碑も現在地に移して今日に至っている。

梁田戦争戦死塚

三月九日(4月1日)明け六ツ(午前六時)旧幕軍の屯集を知った西軍は(大垣・薩摩・長州)=二百余名=は奇襲をかけた。朝食の準備やまだ寝起き状態であたという旧幕軍は混乱するも、反撃を開始、今井の前軍は善戦し、大垣・薩摩藩兵を押し返し、追撃戦まで行ったという。

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古屋らは、更に西軍の援軍が押し寄せる前に渡良瀬川を渡河し田沼宿で昼食をとり、永野村に於いて隊士の点検を行った。この戦いで百名近い勇者の兵士を失ったという。

長福寺墓碑

〈会津藩士の墓=宗聖寺〉

敵の銃弾に斃れた軍監柳田勝太郎(会津藩士)は、三軍に分けたどの軍に属していたのか分からないが、前軍であったのだろうか——。

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西軍の猛砲銃撃に逃げ惑う隊士を励まし押しとどめ、自らもピストルを撃って反撃するがついに討死する。また差図役加藤惣左衛門(会津藩)もこの戦いで討死にしている。

会津藩士之墓=宗聖寺

〈会津藩士柳田勝太郎之墓=宗聖寺〉〈梁田〉

一時は追撃する程の戦いを展開するも西軍に援軍が到着してからは、次第に追い戻され、宿場の入り口辺り防戦する。この時柳田勝太郎、差図役中山振平、野村常三郎を含め戦死者二十八名、砲兵頭の磯野光太郎、軍監前田兵衛(会津藩桃沢彦次郎)らが重軽傷を負い、他に三十余名が戦傷となっている。しかし、戦いは続く、朝食も食べれず空腹と疲労に次第に戦闘力が著しく削減され、大砲一門も壊れ、やむなく中軍を第一に前・後軍が交互にして渡良瀬川の堤防まで退却する。

会津藩士柳田勝太郎之墓=宗聖寺

〈墓の裏面の碑文〉

柳田勝太郎は会津藩士小右衛門の長子なり。容貌魁  に剛毅の士と交わり、同藩士佐川官兵衛、林又三郎     藩主京都守護職となり京都にあるとき、常にこれに従い  国事に憂えてやまず。明治戊辰年幕軍古屋佐久左衛門隊の軍監となる。将士、皆、その思惑に服す。慶応四年三月九日梁田に戦い 数銃創を被し首刎(自刃)して死す。享年三十四歳。従者その首級を益して去る。後、父小右衛門霊廟で見る数回、遂に梁田に来りて首級を発 先 に葬る。而して遺骸の在る所を とせす、以て遺憾となす。

柳田勝太郎碑文

〈自性寺〉〈戊辰戦役幕軍之墓〉

自性寺

〈戊辰戦役幕軍乃墓〉

自性寺の門前の右側に在る。

慶応四年戊辰三月九日戦死と横に刻まれている。

〈戊辰戦役幕軍乃墓〉

〈夜を徹して鹿沼宿へ〉

戦いが次第に不利となり戦傷者が続出するに至り、総督古屋佐久左衛門は撤退と決し、まず負傷者を梁田の渡しから田沼へ向かわせ、激しい砲銃戦を渡良瀬川の堤防で展開しながら撤退した。西軍もそれ以上追撃する余力はなかった。

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未明からの戦闘に空腹・疲労が重なり、戦闘士気も薄れた隊士を励ましながら先発させた負傷者の田沼宿へ向かい、ここでまず腹ごしらえをすませ、次の村なる永野村へ徐々に進軍させ、八ツ半(午後三時頃)永野村に着陣した。激戦に余裕もなかったが、ここで古屋は諸隊に兵士の確認を命じた。脱走者もあったようだが、戦死・負傷者が百余名を数え、激戦を物語っていた。西軍の急襲が一応成功した形となった。

衝鋒隊鹿沼へ

古屋総督にとって大きな問題が発覚した。軍用金監視として定めた会計方差図役・鈴木秀二郎が戦闘中後方に布陣していたが、多くの隊士が戦傷を負うのを知り、武器・兵糧を運搬する駄馬に乗せた軍用金八百両と共に砲煙に紛れていずこかに遁走していた事件である。

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憤慨、不義不徳を憎んでも余りある軍用金共々遁走したことは、多くの隊士に広がるが士気はそのことに対してますます旺盛になったという。

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それにしても古屋総督の心中を悩ましたのは、前将軍徳川慶喜が恭順・謹慎を何とか朝廷に認めさせようとしている時期に、勅使一行と戦った事であった。しかし実際はそれを警護するといより江戸侵攻をめざす西軍であった事を知り、何も敵対する行為をしなかった鎮撫隊にとっては如何とも悔しい思いであった。

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しかし、古屋総督は、まず負傷者の応急処置を命じ幹部を招集し評議を行った。例え不意の襲撃であれ、後で知ったとはいえ、勅使一行の警護をする西軍と一戦した事は謹慎する徳川慶喜に影響を及ぼすと考え、潔くその責任をとり、合わせて隊士に罪なき事を訴え、幹部が割腹して責任をとる事を定めた。その場所は日光東照宮とした

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古屋総督は人夫には二日間の糧食と金子を与え返し、重傷者は戸板、軽傷者は篭籠などに分乗させ、前軍・中軍・後軍の各諸隊の中央に配置し直ちに永野を出立した。この行軍は夜を徹して行われ、翌十日の午前十一時頃に鹿沼宿に宿陣する。その夜、古屋佐久左衛門(総督)今井信郎(頭並隊長)内田庄司(大隊長)らは隊士らと訣別の宴を張り、江戸表(旧幕府・勝海舟)へ(1)事の顛末(2)三人の幹部の割腹(3)隊士の助命—の書簡を隊士斎藤米太郎、渡辺新次郎に持たせ出立させた。

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宴は古屋・今井・内田の割腹への訣別である。衝鋒隊戦史に”一同感慨無量、一片の月に万魁の涙を煽ぎ,悲歌 夜を徹して飲み明かし。とある。負傷した会津藩士桃沢彦次郎はどんな思いであったのだろうか。

三月十一日(4月3日)早朝「死出の旅路」へと出立準備する所に斥候が戻り、日光にはすでに西軍に恭順した「下野地方の諸藩」の軍勢が厳重に守備陣営をとり日光参拝は不可能との情報を伝えてきた。古屋総督は再び評議を開き善後策を考えるが、強行すれば再び戦いとなる事は必至、さすればまた罪名を蒙り、汚名を残すと、なかなか結論が出なかった。

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そこへ、まだ西軍へ恭順していない諸藩の数藩が訪れて(藩論は恭順に決しても、それに不満を持つ藩士らであったと思われる)「徳川家のために奮起し、再興の任に当たるべき」と力づけてきたという。

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ここに古屋総督は「主君を恥ずかしむる奸臣(薩摩・長州)の掃討」に決し。まず負傷者を会津藩に願い、西軍と戦う事に決し鹿沼を出陣した。鹿沼から舟生(現・船生)までの距離である。幕末頃は一日の行程は平均八~十里(一里=約四キロ)といわれている。重症負傷者を抱えての行軍である。強行軍であったと思われる。奸臣輩との一戦辞さずと決めた隊は、意気も上がり堂々と出陣したという。

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日光東照宮に参拝し、その霊前にて割腹を決意した古屋総督らは、再び出陣と変更し意気消沈していた隊士にも、明日はどうなるか予測はつかなかったが、西軍から賊と汚名を着せられ武備恭順する会津をめざすことになった。ただ会津藩は徳川家から排除されており、その怒りもあったと思われるが、西軍も会津藩に対しては強固な方針を持っている。その味方となれば鎮撫隊も同類とみなし、その攻撃は激しいものになることは論を待たない。

信州鎮撫隊会津へ、衝鋒隊と改称し越後へ出立

鹿沼から舟生

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