長岡城奪還へ向けての各地の戦い④ 与板城攻略へ

与板町歴史資料館内に展示されている会津の大筒と弾薬箱会津戊辰戦争(参-二)

長岡城奪還へ向けての各地の戦い③狩谷川の攻防、久田の戦い

長岡城奪還へ向けての各地の戦い④
与板城攻略へ

〈村上藩、援軍として着陣する〉

昨日の戦いの失敗から六月十三日(8月1日)寺泊に宿陣した会津・庄内藩は、再び軍議を行い攻撃への作戦を練り大和田から七ッ石方面に出陣し山手と海岸方面に胸壁を二重に構築し、旧幕軍新遊撃隊(伊藤辰之助)も出陣する。

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六月十四日(8月2日)西軍の久田陣営に対する攻撃の布陣を敷き、胸壁などを構築した同盟軍陣営に村上藩が来援し再度軍議、陣容の部署を変更し
(1)新遊撃隊・庄内藩一小隊、水戸諸生党は山田
(2)庄内藩三小隊、会津結義隊は落水山と坂谷山
(3)残る庄内藩三小隊は村上藩らと高月、高森
に布陣し、西軍と対峠し、殆んど三十日間に及ぶ砲撃戦を展開することになる。

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一方、西軍海道軍は出雲崎に本営を置き、日本海を背にする久田山に砲台、胸壁を築き布陣し軍艦が軍需物資を運んだりし、山道軍へ送り込んでいる。布陣した久田山は現在のヨネックス寺泊CCの丘陵である。ヨネックスカントリークラブ

〈与板城攻略へ出陣する〉

一方、五月二十三日の軍議で与板口、弥彦口方面への出陣と定まった同盟軍の諸隊は翌二十四日出陣する。会津藩水原陣屋陣将萱野右兵衛は杉沢から加茂に着陣するが、金ヶ崎方面と決まり、三条・上野原まで進み宿陣する。五月二十五日(7月14日)再び諸隊と軍議となり与板進軍と決定した。桑名藩は直ちに出陣し地蔵堂まで進み宿陣するが、会津藩萱野らは翌日の出陣とする。またしても桑名藩から失笑をかっている。翌二十六日に着陣し宿陣する。

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一方、三条(燕)に宿陣していた会津藩大庭源之助は残兵を率い弥彦へ出陣するが、途中ですでに西軍海道軍が侵入し布陣しているとの情報に引き返している。

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すでに同盟軍村上藩は一足先に与板口に出陣し地蔵堂に守備・布陣していたが、西軍が与板城に続々と入城しているとの報せを聞いた事から桑名藩、会津藩は急遽二十五日の軍議で与板への出陣となったのである。五月二十六日(7月15日)地蔵堂に揃った同盟軍は地蔵堂、大河津を本陣とし与板へ進撃することに決めた。

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資料によって多少異なるが、この時布陣したのは
(1)会津藩 萱野萱野右兵衛隊百三十人
(2)桑名藩  雷神隊(立見鑑三郎隊長)
       到人隊(松浦秀八隊長)
       神風隊(町田老之丞隊長)
(3)村上藩 (一小隊)
(4)上山藩 百人 ※水戸諸生党(約二百人)
であった。

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五月二十四日(7月13日)寺泊に西軍軍艦の艦砲射撃を受け、弥彦へ転陣した水戸諸生党(二百人)が布陣していた。が地蔵堂に駆け付けたようだ。

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一方、与板藩は彦根藩井伊家の支藩で勤王色が強かった。大老を生んだ(井伊直弼)本藩が西軍に恭順し出兵し西軍ん一員となって戦っていた。支藩の与板藩は同盟軍が進撃の気配が出ると西軍に援軍を要請し守備陣を張っていた。

資料=桑名藩戊辰戦記
桑名藩戊辰戦記与板方面略図

〈与板の戦い〉

同盟軍は
(1)本道を村上、会津藩、桑名藩
(2)山道沿いを桑名藩、会津藩
(3)島崎に進み西軍海道軍の侵入を阻止
の作戦とし五月二十七日(7月16日)地蔵堂を出陣する。一方、与板藩家老が兵を率いて出陣し金ヶ崎(現岩方)辺りで同盟軍の斥候隊と遭遇し戦いが始まった。金ヶ崎の隣村の田尻の村端に大砲を据えた会津藩が砲撃を開始する。また会津藩も銃撃を開始する。激しい砲銃攻撃に与板藩は退却する。

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この一帯は小高い山々があり、それらの山々に布陣した与板藩は反撃する。同盟軍の桑名藩(到人隊=馬場三九郎副隊長)の活躍めざましく、当時雷塚といわれた陣地を攻略し、兵器や弾薬などの多くの戦利品を捕捉したという。

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日没が迫る頃、与板藩は退却、同盟軍もそれぞれ攻略した陣地に野営する。

〈与板城跡〉

与板城に退いた西軍は(与板藩)本営へ至急援軍を依頼し本営は長州藩二小隊と砲三門、薩摩藩半小隊、須坂藩一小隊を派遣し、五月二十八日(7月17日)の夜明け前に与板へ着陣、直ちに軍議を開き本営に長州・須坂藩が守備し塩之入峠口に薩摩・長州・飯山・戸山・与板藩を配置した。

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与板城は彦根藩の井伊家の支藩で二万石高の陣屋であった。藩主は井伊直安。

2003年10月14日撮影
与板城跡

〈与板城(陣屋)跡〉

一方、同盟軍は本道方面に会津・村上・上山藩と桑名藩半小隊と会津・桑名藩の大砲二門であった。また塩乃入峠方面は桑名藩が主力隊であった。さらに島崎方面からの西軍の侵入阻止のため桑名藩が守備していたが半小隊を残して半隊が合流していた。

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同盟軍の三倍といわれた西軍は、まず本道の同盟軍へ攻撃をしてきた。激戦となった。一進一退の攻防戦が延々と続いた。一度は同盟軍を金ヶ崎(現岩方)まで押し返すが、夕刻頃には再び西軍は本与板まで押し返されている。

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2003年10月14日撮影
与板城跡

与板町歴史資料館に展示されている与板城跡模型
与板町歴史資料館展示、与板城跡模型

〈戊辰役与板恩人之碑〉

一方、塩之入峠方面では、早朝、前日黒坂に布陣した桑名藩の一隊は島崎方面への防備陣(半小隊)を残し(北野村の高台に転陣させ)途中の荒巻村を西軍の拠点とならぬよう放火し根小屋村へ進み塩之入峠に進軍、峠の頂から西軍ん一斉射撃を浴び反撃する。銃身が焼ける程の銃撃戦であったという。

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渓谷の水を汲み、銃身を冷やしていると突然背後から西軍が銃撃してきた。陣ケ峰に布陣した西軍の一隊が迂回して攻めてきたのである。前進して敵中突破を決意した桑名藩であった。その時、本道方面の桑名藩士が迂回路をとって本道の同盟軍が与板城へ肉迫していると伝令に来たのである。西軍にもその報せが届いたらしく、挟撃を恐れた西軍は急ぎ退却した。

戊辰役与板恩人之碑

〈与板城大手門〉〈本願寺与板別院〉

与板城大手門

〈与板城切手門〉〈恩行寺〉

与板城切手門 恩行寺

〈井伊家の紋=恩行寺〉

井伊家の紋=恩行寺

〈恩行寺=井伊家紋〉

※10月14日の与板の探訪(ツアー)は、時折激しい雨に見舞われ撮影も片手に傘を持つことが多くよく撮れていないのがある。

長岡市: 恩行寺

恩行寺=井伊家紋

恩行寺=井伊家紋

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五月二十八日(7月17日)本道から進軍した同盟軍は西軍の主力隊と一進一退の攻防戦を展開、次第に勢いを持った同盟軍が西軍を追い詰めていく。最新洋式の西軍・長州藩に対して旧式の銃器の会津藩であったが、西軍と同じ銃器を持つ桑名藩の戦いが大きい。しかし、西軍をじりじりと後退させ与板へ邁進する。すでに本与板を攻略しつつあった。与板城まであとひと押しの情態となった。

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一方、塩之入峠で一時不利な立場になった桑名藩も再び決死の前進を行い、峠の頂に布陣する西軍を退かせた。しかし島崎方面から西軍・海道軍が侵入し北野に残した桑名藩半隊が防備戦を展開する。三方面の砲銃戦が山々に響き、その音響は天地が動く程のものとなった。島崎方面からの西軍を退却させた。西軍は陣ヶ峰に布陣した一隊が猛砲銃撃を展開してくる。

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与板町歴史資料館内に展示されている会津の大筒と弾薬箱

与板町歴史資料館内に展示されている会津の大筒と弾薬箱

〈与板の街並み・城下街〉

正面方面まで同盟軍が肉迫するという。

与板の街並み

五月二十八日同盟軍は与板城へ肉迫し塩之入峠も攻略し攻め寄せたという。

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城下へ進軍した同盟軍の攻撃に西軍の必死の防戦中、長州・松代・尾張藩が駆け付け激しい応戦となった。与板城を守備する与板藩(陣屋詰藩士)らは城(陣屋)に火を放った。しかし西軍はこの火事を失火と思い、消火に当たり大火に至らなかったという。

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しかし早朝からの戦いに同盟軍は増援になった西軍の反撃と兵士の疲労からあと一歩まで迫りながら戦傷者も多く出始め、日没が迫り退いてしまったのである。

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兵力劣勢の同盟軍であったが常に攻勢をとって西軍を圧迫したが、特に桑名藩の活躍がめざましかったと記録に残っている。

〈同盟軍、再び与板城下へ進撃する〉

五月二十九日(7月18日)同盟軍は再び与板城攻略をめざして出陣。西軍の昨日の反省を踏まえて周囲の丘陵に砲台を据え、同様に丘陵に陣する同盟軍と本街道を進む同盟軍へ砲銃撃を加えてきた。激しい砲銃弾が飛来する中、同盟軍は進撃、城下を目前まで進んだ。城下の数か所から火の手が上がり、その黒煙が同盟軍の進撃を阻止する。一斉射撃を開始しながら猛進、数刻戦った。胸壁を攻略しながら追撃するも次第に火災が猛煙となり、ついに退かざるを得ない情況となり、与板城攻略はこの日もならなかった。

蓮正寺

〈蓮正寺=彦根藩士の墓〉

〈蓮正寺=彦根藩士の墓〉

彦根藩 末松善之進之墓 明治元年七月世日死
明治九年(1876年)五月十七日建立(左側面)とある。

 

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