長岡城奪還へ向けての各地の戦い⑤
与板、与板周辺の戦い

〈島崎の戦い〉
島崎は与板と出雲崎の中間地点にあり、ここを占拠する事は連絡だけで無く、与板の背後を守る為にも重要な場所だった。 そこで西軍はいち早く島崎を占拠する為に五月二十八日に出雲崎に駐留していた高田藩二小隊と加賀藩一小隊、砲一門を向かわせた。
島崎には同盟軍の斥候が数名居たが、これを追い出して島崎の北端に陣地を築いた。 しかし、同盟軍は島崎の東方5~600メートルにある北野から銃撃を仕掛けてきたので高田・加賀藩部隊は応戦し同盟軍を一掃する為に高田藩一小隊を島崎に残してその他の部隊は迂回、背後から攻撃した。
この時、北野にいたのは会津藩一瀬要人と桑名藩立見鑑三郎の一隊であったが、応戦するものの迂回してきた西軍の攻撃の為に劣勢に陥ってしまう。 しかし、島崎北西の明ヶ谷付近に突如東軍の一隊が現れ西軍を背後から襲撃する。
この一隊は、出雲崎の西軍に備えて寺泊に布陣していた会津藩新遊撃隊、結義隊、庄内藩兵の一部と観音寺久左衛門こと松宮雄次郎という越後一の侠客率いる配下(聚義隊と称す)47名だった。
松宮は今朝方から与板方面から砲声が聞こえるのに気づき、速やかに援軍を出す様に謀り、渡部英次郎率いる結義隊、庄内藩兵、そして松宮率いる聚義隊47名が寺泊を発して間道を島崎へ向かった。
不意を付かれた西軍は慌てふためき、退路をしゃだんされる恐れも出てきた為に急いで後退、島崎に残した一隊と南西3キロの乙茂で合流後、出雲崎まで引き揚げた。
この後、六月二日にも島崎で戦いが起こるが桑名隊、結義隊等の活躍により西軍を退け多くの弾薬を得た。
〈会津藩の大筒と砲弾〉〈与板町郷土資料館〉
五月二十四日(7月13日)、二十五日の二日間、西軍の艦砲射撃を受けながらも、援軍のないままよく守備した会津藩佐藤織之進の元へ結義隊の渡部英次郎が訪れ与板城の攻防戦を展開しているが、西軍北陸道鎮撫の海道軍が出雲崎に滞陣し、同盟軍の背後を襲うべく島崎へ進軍する旨を伝えてきたのである。 五月二十八日(7月17日)四ツ時(午前十時)頃出陣し急襲をかけ撃退して引き揚げた。 西軍は出雲崎へ敗走する。

〈与板城攻略成らず〉
五月二十九日(7月18日)同盟軍の与板城攻略は失敗に終わったが、桑名藩らが戦いは(間道=山間)激しい砲撃戦を展開、勝敗はつかなかったという。
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五月三十日(7月19日)は双方激戦の疲労と城下の火災により、小競り合いの砲戦だけであったという。同盟軍は鷹ヶ峯に、西軍は陣ケ峰の砲陣を敷きにらみ合いがこの日からしばらく続いたと伝わる。
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与板町郷土資料館に展示されている与板城(陣屋)模型
与板城跡(井伊家)
〈都野神社〉
2003年10月14日撮影
〈松代藩士の墓〉〈都野神社〉
〈碑面〉
正面 官軍 松代藩士の墓
右側 維持 明治元年戊辰十月立石
左側 慶応四年七月十五日 於原村戦死 森山態之助□以
同六日 於同所戦死 六番隊 岡沢要之助秀明
同十六日 於見播山戦死 同隊 宇敷恒右衛門宗則
与板町歴史民俗資料館
与板周辺の戦い
五月二十七日(7月16日)から三日間、与板城攻略の戦いを展開するが、その目的を達成できなかった同盟軍は二十三日の同盟軍の軍議で決定したこの攻略をどうするか、桑名藩が守備する塩之入峠に六月一日(7月20日)集結し軍議を行った。
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しかし、時は止まっていなかった。西軍は陣ケ峰に城郭のような大胸壁を構築し与板への本道を容易に通貨できないように陣地をより強固に防備体制を整えつつあった。
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一方、同盟軍も鷹ヶ峰に強固な胸壁を築き相対する。しかし、鷹ヶ峰は陣ケ峰より低く攻めるには容易ではなかった。さらに西軍は援軍が着陣し与板を見下ろす剣ヶ峰から笠抜山にも布陣し長州(二小隊)松代(一隊)尾張(一小隊)須坂(二小隊)の六小隊が防備陣を構築していた。同盟軍が迂回路を進軍するのを阻止するための布陣であった。
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攻める側の同盟軍には、まだ援軍は着陣していなかった。当初より戦傷者が出た分、兵力は減っていた。
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同盟軍は軍議によってそれぞれの陣容、布陣を定めた。会津藩萱野右兵衛の一隊は富岡から陣ケ峰へ、桑名藩は笠抜山方面への攻撃と定めた。
六月二日(7月21日)会津藩萱野右兵衛は富岡山へ前夜のうちに出陣し陣ケ峰の西軍陣へ朝がけの攻撃をせんとするが悪路のため時を費やし到着するのに苦労する。しかし、西軍は要所要所に塁壁を築き容易に前進できない。激しい戦いとなるが戦傷者を出すに至り北野へ退却となった。
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一方、剣ヶ峰、笠抜山方面へ出陣した桑名藩も強固な陣地を築き守備する西軍の前に、また山上から狙撃されるので無理な進撃を止め退いた。
会津藩、桑名藩らが与板方面の峰で戦っている時、北陸道・海道軍の西軍が再び進軍し島崎方面に現れ留守番的に守備していた。会津藩寄合組隊、水戸諸生党(一小隊)らと戦いとなった。
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西軍は高田・薩摩・長州・金沢藩の約三百名であった。小島谷、荒巻、島崎への三方面の進撃である。北野を守備する桑名藩は約二十余名、しかし、高台に陣地を築き守備し、西軍が接近するまで攻撃せずに待ち受け平坦地を押し寄せてくる高田藩を狙い撃った。荒巻方面も会津・村上藩が少数であったがよく善戦する。
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そこへ寺泊に布陣していた会津藩結義隊がまたしても応戦に駆けつけ奮戦し、最強軍団といわれる薩長兵を夕刻頃には多くの戦死者を出して西軍は大軍であったが敗走となった。
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少ない守備陣形であった同盟軍は高台に強固な陣地を構築し守備していたのが功を奏したようである。この戦いで敗走した西軍はしばらく出雲崎から進軍は控えたという。
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一方、同盟軍も進撃をせず援軍が到着するまで各陣地で防備を続けるようになるのである。
与板の戦いとその周辺の戦いも膠着状態となっていく。一旦この項は終える。
五月二十四日の艦砲射撃があった寺泊方面に移ってみることにする。
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