〈徳川慶喜、会津藩負傷者を見舞う〉
徳川慶喜は「鳥羽伏見の戦い」で最も多くの戦死傷者を出した会津藩負傷者を「三田藩邸」に老中、若年寄、陸軍奉行らを従えて見舞いに訪れた。負傷者たちにねぎらいの言葉をかけたという。やはり会津藩士小森 一貫斎らが案内したものと思われる。
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この時、負傷者の「高津忠三郎」は大声で、幕兵の不甲斐なさになぞらえて(例えて)慶喜のこれまでの態度を詰った。負傷者たちは日頃、陰にて口々に悪口をいっていたという。それを代弁するかのように高津は病床から言ったのであろう。慶喜をはじめ、同行した幕閣者は、どんな思いであったろうか。高津はこの後、回復し明治まで生きながらえている所をみると、それ程「咎め」も受けなかったのであろう。
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この高津忠三郎は傷が快方に向かうと、和田倉門内の上屋敷に出向き、容保に拝謁し、鳥羽伏見の戦いの様子を述べ「慶喜は誠に腰抜けで当てにはできない。一刻も早く帰国し五千の兵を募り、藩四境の警護をしたほうがよい」と進言したという。さらに明治になると、政府転覆を目論んだ※「思案橋事件」の首謀者の一人となっている。
※はいつか追ってみたいと思っている。
〈会津藩、金穀借用の嘆願書を提出する〉〈江戸城〉
二十日、慶喜が会津藩負傷者を見舞ったが、同日、会津藩士柏崎才一(勘定方と思われる)は、旧幕府に「金」と「米」などの借用嘆願書を出した。「戦い」に於いて多くの戦死傷者を出し、その手当ても甚大であり、また大阪より退陣してきた藩士の生活も急な事ゆえに、大変な事体である所から、金二十万両、米穀三万俵の借り入れを申し入れた。この「嘆願書」にどの程度旧幕府は応えたのか、旧幕海軍館長の榎本武陽が大阪城から武器と共に十八万両を運んだと伝わるが、旧幕府にとっても財政は逼迫していた折であった。
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「桜田二重櫓」
御曲輪内大名小路絵図
〈江戸城和田倉橋〉
二十三日の「大評定」で徳川慶喜の恭順が発せられ、城中の主戦論者の胸中は推し量れるものではなかった。数日間は、慶喜の恭順の考えが変わる事を願いつつ「評定」も行われたかも知れないが、松平容保は、慶喜が変わるとは考えていなかった。一月二十四日(2月17日)には、江戸在住婦人の帰国を届け出ている。
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一方、「鳥羽伏見の戦い」に参戦した会津藩砲兵隊らが漸く品川沖に入港し、二十五日に「増上寺・徳水院」「三田藩邸」に分宿した。
〈和田倉門跡〉
左の石垣と石垣との間に「和田倉の門」があった所。その門を掻い潜ると会津藩邸が建ってていたのである
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〈会津藩邸の石垣〉
石段が正面に残っている。
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一月二十五日(2月18日)会津藩士三村勝之丞は、勝海舟を訪ねた。慶喜の恭順の真意と旧幕府の意向を確認しようと訪ねたものと考える。

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